福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」論について、それは植民地主義だとか侵略主義だとかいう批判がつきものだが、竹内好はもうすこし丁寧な議論をしている。まずは、有名な脱亜論の一節を引くと …。 「我国は隣国の開明を待って共に亜細亜を興すの猶予あるべからず。むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし ……悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我は心において亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」(『時事新報』1885年、無署名記事だが福沢が書いたとされる。) この福沢の「脱亜論」について、竹内は次のように述べる。少し長くなりますが …。 「(福沢は)日本がアジアでないと考えたのでもなく、日本がアジアから脱却できると考えたのでもない。 ……福沢が思想家として生きた時代は、日本が植民地支配化の現実の危険にさらされていた時期から、日本が不平等条約を撤廃して実質的な独立をかちとることを基本国策とした時期にかけてであって、彼にとって『西洋の文明国と進退を共に』するのは、この目的のための選択をゆるさぬ唯一の手段であった。彼において、国の独立という目的と、その目的実現の手段としての、文明の自己貫徹という法則(文明への流れの必然性)への服従とは、見事な緊張関係を保って並存している。 …… (しかし、日清戦争の勝利の後)国の独立の基礎が固まるにつれて、福沢において内面的緊張の下にあった目的(国家の独立)と手段(脱亜入欧)の関係がゆるみ ……『悪友を謝絶する』ことが独立と無関係に目的化され、『亜細亜を興す』方はこの目的に従属化されるようになった。 ……(植民地化の)危機感が弱まるにつれて、日本人の対アジア認識は、政府も民間も、急速に能力が低下した。」(「日本とアジア」1961年) 竹内の議論にしたがえば、福沢の「脱亜入欧」論における目的と手段が転倒した時期から、当の福沢だけでなく、日本社会(日本人)における、アジア蔑視意識=アジア支配の正当化の論理、漱石の言葉では「一等国」意識が出てくる。それはまた「日本人の対アジア認識」の劣化を意味した。なぜなら、自分の偏見を投影した「アジア」(「遅れたアジア」!)しか見ないところから、正確な他者認識が得られることはないからである。そして、偏見に曇らされて他者が見えないとき、それはまた自分自身も見えていないということになるのだが、日本社会はそのこ