「無常観の政治化」 死者たちへの約束(3)
(前回からのつづき) 堀田善衛『方丈記私記』(初刊 1971年)にも、堀田(1918ー1998)が、東京大空襲直後の焼け跡を歩き、そのなかで何を思ったのかが記されている。 戦争末期、 20代半ばの堀田は、病気にかかって召集解除となり、東京に戻っていた。45年3月9日夜から翌10日未明にかけての東京大空襲の直後、知り合いの安否をたずね、破壊され焼き尽くされた東京の街を歩いた。「黒焦げの屍体」、焼け出された罹災者たちを数多く見た。その廃墟にたたずみ、次のような想念を抱いたという(以下「」は『方丈記私記』からの引用)。 「満州事変以来のすべての戦争運営の最高責任者としての天皇をはじめとして、その住居、事務所、機関などのすべてが焼け落ちて、天皇をはじめとして全部が罹災者、つまりは難民になってしまえば、それで終りだ、終りだ、ということは、つまりはもう一つの始まりだ、ということだ …(そんな想念が)一つの啓示のようにして私にやってきたのであった。…日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる、という、不気味で、しかもなお一面においてさわやかな期待の感であった。」 しかし、堀田はほどなく、そうした期待が、「現実離れした、甘いものにすぎなかった」ということを思い知らされることになる。 それは、空襲から1週間ほど経った 3月18日のことである。 堀田はその日、空襲で壊滅的被害にあった本所深川方面を訪ねた。知り合い(女性)が深川で暮らしていて、おそらく助かってはいまいが、「その現場へ行って訣(わか)れが告げたかった」からであった。 朝 7時過ぎに女の住んでいた富岡八幡宮跡あたりに着いた。やがて警官や憲兵の姿やけに多く目につくようになり、彼らは焼け跡の整理を始めた。うるさく思った堀田は、いったんその場を離れ、9時近くになってふたたび富岡八幡宮跡に戻った。 「私はおどろいた。焼け跡はすっかり整理されて、憲兵が四隅に立ち、高位のそれらしい警官のようなものも数を増し」、文官のようなもの、役人らしいものもいて、ちょっとした人だかりがしていた。9時すぎかと思われる頃、ほとんど外車である乗用車の列が永代橋の方向からあらわれた。「それは焼け跡とは、まったく、なんとも言えずなじまない光景であって、現実とはとても信じ難いものであった。 …ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴び