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もう一つの幕末維新史(3) 「同じ人民ですもの」

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(前回のづつき) 『戊辰物語』を読みながら、そこに書き留められているさまざまの人間模様 は、良くも悪くも、それから 150年経った現在も、大きくは変わっていないように思われた。しかしまた、前回紹介した、「八郎」と戦闘行動をともにした彰義隊隊士「石川善一郎」や、「馬丁熊吉」、「下女ふじ」に思いを馳せるとき、社会がすこしでも良いほうへと変わってほしいと願うだけの惰弱な私にも、自身の生に向き合って生きたかれらの姿勢は、何よりも大いなる励ましであった。 これまで幕末維新史について分析的に論じた本(論文)をすこしは読んできたが、そこに透けて見える、書き手の「人間=社会」像の「完全無欠さ」や 、あるいはその「分析視角・論理構成」の「隙のなさ」が、 ときとして私には息苦しく感じられる こと が あった 。自分 自身 が そ うであるように 、欠陥 もあり 、 過ちも犯すのが「 ひと 」 の常である という 前提 に立って 「人間=社会」の解放の道筋について 考え論じていく、 というような発想はでき ないものか …。「難解」な本を手にしながら、私はよくそんな 詮無いことを思 ってみたのだった 。 『戊辰物語』は、そのような「解放」があるとはけっして言っていないし、まして、その道筋を示すものでもない。しかし、「ひと」がよりよく生き得る道へと、各自が最初の一歩を踏み出す「場所」とその「方向」は示唆して くれているように思う。自分もまた「まちがい」をおかす人間であるという認識が、自己の思考・行動を見つめ、そして他者とのかかわりをかえるみる「原点」である。そこから、各自が自身の生の「座標」を構想していけばいい。幕末維新期の庶民たちの物語は、 そのように私を励ましてくれた。   最後に、『戊辰物語』と同じく、幕末の古老の話をあつめた『幕末百話』にある、ひとつの話を引いて「もう一つの幕末史」を結びたい。なお、『幕末百話』は 1905年に刊行され、1929年に再刊、そして現在は岩波文庫で読むことができる。 ある晩、一人の町人が帰り道で侍から言いがかりをつけられ、斬りつけられた。とっさに町人は侍に体当たりをして逃げ、なんとか「命拾い」した。その江戸っ子の回顧談「昔の町人の命拾い」につぎのような一節がある。 「昔の商人は、一口に素町人(すちょうにん)と呼ばれ、侍衆(さむらいしゅう)には頭があがらない

もう一つの幕末維新史(2) 江戸庶民の「心根」

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  (前回からのつづき) 3 「死んだら仏だ、敵も味方もねえ」 『戊辰物語』(「彰義隊余聞」)から、三つ目の逸話を紹介したい。 上野寛永寺を拠点にして新政府軍(官軍)と戦った彰義隊のリーダーの一人に、天野八郎がいた。抗戦及ばず敗走した八郎はある町家に隠れていたが、先に捕えられた彰義隊士・石川善一郎が同じ牢にいた僧の奸計にはまってうっかり八郎の居所を漏らしてしまった。そのため、八郎も囚われの身となり、その5か月後に獄中で病没する。(↓は、天野八郎が獄中で記した「 斃休録 」。彰義隊結成の経緯、上野戦争の経過などが書かれている。その釈文は、 ここ で読むことができる。)   『物語』によれば、リーダー天野八郎捕縛の顛末をのちに知った石川は、「自分の不注意を悔ゆると共に、それによって八郎が捕えられ、獄中に病死するに至ったのであるからと、出獄後は、八郎の妻つね子及び長男徳太郎(上野戦争の直前に誕生)、長女すず子のために骨を折り、静岡へつれて行って徳川家から扶助を受ける事にしてやった」という。 また、八郎の馬の世話をしていた馬丁の「熊吉」は、八郎の捕縛後、その愛馬が官軍に取り上げられ、「この馬に官兵が跨って悠々として通行するのを見」て、「狂気の如くになって家(天野家)に駆け込んで来て、八郎の夫人つね子の袖へとりすがって声をあげて泣いている」。のち、熊吉は旧幕軍のあとを追って箱館戦争に加わり、「軍議すでに降伏に決したと聞いて、鉄砲を喉へうち込んで自殺してしまった」という。 さらに、天野家に雇われていた「下女ふじ」は、八郎亡きあとも、その遺族とともに「各所を流浪し」、「最後まで傍を離れず、己を捨てて主家のために奉公した」。 これらの逸話からは、「石川善一郎」「熊吉」「ふじ」の精神に何かを刻印したであろう、八郎や「夫人つね子」の、日々の暮らしのなかで見せていたはずの「ひと」としての振る舞いを想像させもする。天野夫婦の薫陶がなにほどかはあって、かれらもまたみずからを一層磨き得たのだとも思われる (もちろん、相互的にその逆もあったであろう) 。「ひと」のあいだで「ひと」は育つ。そこに「武士」と「庶民」の区分はない。「武士道」をこえた「ひとの道」を、「熊吉」も「ふじ」も生きたのである。 そうした庶民の「心根」がうかがえる話をもう一つ、『戊辰物語』から引いておきたい。 上野戦争のあと「彰義

もう一つの幕末維新史(1) 切実な「つまらぬこと」

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ひと月ほど前、『戊辰物語』という本(以下、『物語』)を読んだ。この本には、幕末維新期の江戸・東京を生きた古老たちからの聞き書きやそれを整理した話が載っている(私が読んだのは、 1928年の初刊本の再刊版、岩波文庫のもの ↓)。 「幕末維新」に関する本といえば、討幕側と幕府側との権力闘争を描いたもの、またその「プレイヤー」たちの思想や行動に焦点をあてたものなどいろいろとあるが、それらと違ってこの『物語』には、その時代を江戸のふつう(一般)の人びとがどう生き、かれらの目と心に何が映っていたのかが記録されていて、とても興味深かった。 戊辰の年( 1868年)は、政治史的には鳥羽伏見の戦いから東北戦争(会津戦争など)、箱館戦争(五稜郭)へと続く、「近代国家」建設の主導権をめぐる内戦期にあたる。江戸でも 戊辰五月十五日に(うるう年でもあり梅雨の時期だったらしい)、 上野戦争があった。徳川家の菩提寺である上野の寛永寺に拠る彰義隊を「官軍」が包囲攻撃したたたかいである。彰義隊は、新政府軍の兵力に抗しきれず、壊滅、敗走した。朝に始まった戦闘は、夕方には決着がついた。 『物語』から、上野戦争にかかわる三つの話を紹介したい(他にも興味深い話はいろいろあるのだが …)。   1 近づく戦争、「朝風呂」を楽しむ庶民たち 『物語』には、仏師であった高村光雲(光太郎の父)が語った次のような話が紹介されている。 「(江戸でも戦争がいつ始まるかという状況なのに) …町人などは呑気なもので、朝湯などで、流し場へ足を投げ出し、手拭いを頭の上へのせながら、『近い中に公方様と天朝様との戦争があるんだってなア』というような話を仕合う位のものである。これから、どうしようなどというような考えなどは持つ者はいなかった。」 四月にあった新政府軍の江戸入城を前後して、 「公方様」と「天朝様」のあいだで緊張した状況が生じていたが、庶民は普段どおり風呂屋でのんきに「朝湯」を楽しんでいる。高村の話ぶりからは、庶民にとっては「政治」(意識)も、それがわが身に及ばない限り、風呂屋で交わす世間話のひとつにすぎないほどのものだった、というような「批評」も聞こえてくる。 しかし、この時代、そもそも庶民は制度上、政治参加から排除されていたわけだから、政治状況が緊迫していようが、これまでどおり「朝湯」を楽しむのは当然のことであり、「お上