もう一つの幕末維新史(2) 江戸庶民の「心根」

 (前回からのつづき)

3 「死んだら仏だ、敵も味方もねえ」

『戊辰物語』(「彰義隊余聞」)から、三つ目の逸話を紹介したい。

上野寛永寺を拠点にして新政府軍(官軍)と戦った彰義隊のリーダーの一人に、天野八郎がいた。抗戦及ばず敗走した八郎はある町家に隠れていたが、先に捕えられた彰義隊士・石川善一郎が同じ牢にいた僧の奸計にはまってうっかり八郎の居所を漏らしてしまった。そのため、八郎も囚われの身となり、その5か月後に獄中で病没する。(↓は、天野八郎が獄中で記した「斃休録」。彰義隊結成の経緯、上野戦争の経過などが書かれている。その釈文は、ここで読むことができる。)



 

『物語』によれば、リーダー天野八郎捕縛の顛末をのちに知った石川は、「自分の不注意を悔ゆると共に、それによって八郎が捕えられ、獄中に病死するに至ったのであるからと、出獄後は、八郎の妻つね子及び長男徳太郎(上野戦争の直前に誕生)、長女すず子のために骨を折り、静岡へつれて行って徳川家から扶助を受ける事にしてやった」という。

また、八郎の馬の世話をしていた馬丁の「熊吉」は、八郎の捕縛後、その愛馬が官軍に取り上げられ、「この馬に官兵が跨って悠々として通行するのを見」て、「狂気の如くになって家(天野家)に駆け込んで来て、八郎の夫人つね子の袖へとりすがって声をあげて泣いている」。のち、熊吉は旧幕軍のあとを追って箱館戦争に加わり、「軍議すでに降伏に決したと聞いて、鉄砲を喉へうち込んで自殺してしまった」という。

さらに、天野家に雇われていた「下女ふじ」は、八郎亡きあとも、その遺族とともに「各所を流浪し」、「最後まで傍を離れず、己を捨てて主家のために奉公した」。

これらの逸話からは、「石川善一郎」「熊吉」「ふじ」の精神に何かを刻印したであろう、八郎や「夫人つね子」の、日々の暮らしのなかで見せていたはずの「ひと」としての振る舞いを想像させもする。天野夫婦の薫陶がなにほどかはあって、かれらもまたみずからを一層磨き得たのだとも思われる(もちろん、相互的にその逆もあったであろう)。「ひと」のあいだで「ひと」は育つ。そこに「武士」と「庶民」の区分はない。「武士道」をこえた「ひとの道」を、「熊吉」も「ふじ」も生きたのである。

そうした庶民の「心根」がうかがえる話をもう一つ、『戊辰物語』から引いておきたい。

上野戦争のあと「彰義隊の戦死者が、上野の山に累々として…悲惨を極めて」いた。「官軍」は戦死者を切り刻むなど非道なことをしていたらしい。加えて長雨の季節、放置され腐乱のすすむ、その悲惨なさまを見かねたのが、神田で「人足宿」(労働者の派遣手配業?)を営む「三河屋三幸という侠客」であった。「これ(三幸)が三輪(みのわ)の円通寺住職と相談し、隊士の屍(「百八十三」体)を引きとってことごとく埋葬した」とのことである。

『物語』は、「死んだら仏だ、敵も味方もねえ」と、そのとき侠客「三幸」が切ったという啖呵を書き留めている。一侠客のこの言葉は、政治(戦争)や組織の論理に内在する敵/味方の二分法をこえ、普遍的な思考の可能性のほうへと開かれている。

ところで、すこしまえ、大河内伝次郎主演の「上州鴉」という股旅物の映画(1951年)をYouTubeで見た。当時、映画であれ大衆演劇であれ、こうした股旅物を、観客たち(庶民)は、登場人物の心の揺れに寄り添いながら「ひとの道」を歩むことのむずかしさを自身に重ねて見ていたのではないか。それにつけても思うのは、現代のヤクザ映画では、「リアリズム」の名のもとに、凄惨な暴力シーンがどうしてあんなにも延々と続くのだろう、ということである。宿場町で繰り広げられる股旅物の喧嘩には物見高い人びと(=「公」衆)が欠かせないが、リアリズム映画はただただ内に向かう「私」刑(リンチ)の応酬ばかりだ。その出口のなさは、現代資本主義社会の閉塞状況の反映であるのか。

(つづく)

 

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