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「成就された一つの偉大な決意」 中野好夫ノート(3)

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(前回からのつづき) 中野好夫『酸っぱい葡萄』のなかに、 1946年初頭に書いたと思われる「権利と責任」という文章がある。権利には義務が伴うが、敗戦直後の日本では、自由の要求と権利の闘争ばかりが声高におこなわれており、一方の義務についてはほとんど語られることがないとう問題を提起している。 その文章の中で、ドキッとすることが述べてられていた。 中野は「最近」、子どもの頃米国に移民したある作家が「徐々に『あたかも慈雨の大地を湿すように』アメリカ化して行った経験を書いた一文を読んだ」とし、次の一節を引用している。(この作家は誰でしょうか? ご教示ください。) 『アメリカ国民(市民?)という意識がはっきり私の自覚に浮かんだのは、あのワシントンで、はじめて議事堂を仰いだ瞬間だった。 ……それはあたかも成就された一つの偉大な決意、支持し抜かれた一つの目的、そしてその背後に遠く地平線の彼方にまで連なる人民と州との静かなる信頼を代弁しているように私には思えた。 』 ある作家のこの一節を引いたうえで、中野好夫は次のように続ける。 「これも私には羨ましかった。日本の議事堂を、日比谷のあの殿堂を一人でもこんな風に書いた日本人があったであろうか。 ……自分たちの議事堂を軽蔑をもって語りこそすれ、誇りをもって語ったことがあるだろうか。……軽蔑からは向上は生まれない。宮城を、神宮を私たちは尊崇することを教えられたように、これこそ本当に国民自身の象徴である議事堂をこそ、私たちは死をもって護り抜かねばならぬことを教えられるべきだったのである。」 1946年初頭に、中野はこう言ったのだった。 思い返せば50年前、1970年6月に私は国会デモのなかにいた。それはこのブログでも 書いたこと がある。しかし、その時の私は、「国民自身の象徴である議事堂をこそ、私たちは死をもって護り抜かねばならぬ」という「責務」の十分の一でも抱いて、その場に立ち、機動隊の阻止線の向こうにかすむ議事堂を見ていたのだろうか。また、機動隊員たちもその「責務」の意識をもってそこに立っていたのだろうか。私(たち)は、 国会を「自己立法」の府として見るどころか、むしろ逆にそれを市民の政治的自由の「疎外態」として見ていなかっただろうか。かえりみて、忸怩たる思い

自己立法としての「自由」 中野好夫ノート(2)

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(前回からのつづき) 中野好夫は、個人とデモクラシーとの関係を念頭におき、「遵法」について次のように論じている。 「一口に遵法といっても、それは与えられた法を守るのと、自らの同意、納得で作られた法を守る場合とがある。日本人は権威で与えられた法には案外従順であるが、かえって自分たちでこしらえた法は平気で破る。」(「われわれの民主主義」 1945-6年) ここで中野がいう二つの「遵法」は、政治学者丸山真男がいう「自由」をめぐる二つの考え方、「拘束の欠如としての自由」と「自己立法としての自由」をめぐる議論を想起させる。そこで、ここから丸山の議論に少しのあいだ横滑りして追ってみる。 「ヨーロッパ近代思想史において、拘束の欠如としての自由が、理性的自己決定としてのそれへと自らを積極的に押進めたとき、はじめてそれは封建的反動との激しい抗争において新しき秩序を形成する内面的エネルギーとして作用しえたといいうる。」 (丸山真男「ジョン・ロックと近代政治原理」 1947年) 丸山は、「理性的自己決定としての自由」を「自己立法としての自由」とも言っているが、それは、中野好夫の「自らの同意、納得で作られた法を守る」という遵法意識とほぼ重なる。何をしてもいいという「自由」ではない。そこでは法規範は、自己の外部にあるものではなく、「自己立法」とあるとおり、みずから立法した法規範によってみずからを律する内在的なものとしてある。「法のないところに自由はない」(ジョン・ロック)という意味であり、近代の民主制(デモクラシー)の根幹である。 ジョン・ロックの英国をはじめ、欧米の近代社会ではおおよそ上の引用にあるように、封建制との激しい闘争をくぐり、「自由」の内実の転換と歩をあわせて社会の新たな秩序が形成されていったのだが、では、日本においてはどうであったのか?(以下、「」内は丸山真男「日本における自由意識の形成と特質」 1947) たとえば、封建制が揺らぎ始めた江戸後期、国学者たち(本居宣長ら)は、封建制を支えてきた儒教規範の偽善性を激しく攻撃したが、「外部的拘束としての規範に対して単に感覚的自由の立場に立てこもること」に終始し、「人間精神を新しき規範の樹立へと立向わせるもの」とはならなかった。 上の丸山真男の議論か

ウェルズが予見しえなかったこと 中野好夫ノート(1) 

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コロナウィルスの感染拡大防止の「外出自粛」が呼びかけられている昨今、もともと外出することもほとんどない暮らしをしている私には(今のところ)特段の変化もなく、また近所の桜もいつもの春のように咲いている。 ただ、こんなのんびりとしたことを言えるのも「非社交型退職老人」だからこそ …。 働いている人や学校に行っている人にとっては、とんだ「たわごと」なのだろうとも思う。 いつものように自宅の書棚に眠っている古い本を引っ張り出して読んでいる。 最近読み直しているのは、中野好夫の『酸っぱい葡萄』( 1979年)だ。 この本は、中野が戦中から敗戦直後の時期に書いたものを集めたエッセイ集で、ひとりのすぐれた知性が、とくに日本の敗戦直後の時期、その状況のなかで何に目を向け、何を考えていたか、について知ることができ、私には学ぶところが大きかった。いや、敗戦直後の中野の思索から、 70数年後の現在もなお学ぶことがあるということは、この私も、この社会も、いささか情けないということになるだろうが…。 中野好夫は、日本が戦争を始め、そして戦争に負けた大きな原因の一つは、日本人の「個人」が脆弱だったこと、自由意志をもって考え行動する「個人」が未熟なままであったところによる、したがって、敗戦国日本の再建はこの個人の向上をおいてほかにないと、繰り返し主張している。そこには、次のような眼前の危惧があった。 「大詔(天皇の言葉、「おおみことのり」)出でて、毫末の混乱もなく平和に帰る有難さは、同時に大詔出でて、善悪ともに国民の意志とは無関係に戦争に突入するという大危険でもあることを忘れてはならない。」(「文学的でない一つの感想」 1947) 日本の敗戦とは、「右向け右!」と言われ右を向いていた人たちが、今度は「左向け左!」と言われて、また一斉に左を向いたというようなことであって、そこに「個」としての苦悩も葛藤も見られなかった。ふたたび「右向け右!」と命ぜられたら ……ということになるわけだろう。 中野好夫は、この話をするにあたり、日本の敗戦を「予言」していたH・G・ウェルズの未来小説『来るべき世界の姿』を取り上げている(図書館にあるようなので一度読んでみようと思う)。この小説が書かれた1933年は、「満州事変」の2年後である