自己立法としての「自由」 中野好夫ノート(2)

(前回からのつづき)

中野好夫は、個人とデモクラシーとの関係を念頭におき、「遵法」について次のように論じている。

「一口に遵法といっても、それは与えられた法を守るのと、自らの同意、納得で作られた法を守る場合とがある。日本人は権威で与えられた法には案外従順であるが、かえって自分たちでこしらえた法は平気で破る。」(「われわれの民主主義」1945-6年)

ここで中野がいう二つの「遵法」は、政治学者丸山真男がいう「自由」をめぐる二つの考え方、「拘束の欠如としての自由」と「自己立法としての自由」をめぐる議論を想起させる。そこで、ここから丸山の議論に少しのあいだ横滑りして追ってみる。

「ヨーロッパ近代思想史において、拘束の欠如としての自由が、理性的自己決定としてのそれへと自らを積極的に押進めたとき、はじめてそれは封建的反動との激しい抗争において新しき秩序を形成する内面的エネルギーとして作用しえたといいうる。」
(丸山真男「ジョン・ロックと近代政治原理」1947年)

丸山は、「理性的自己決定としての自由」を「自己立法としての自由」とも言っているが、それは、中野好夫の「自らの同意、納得で作られた法を守る」という遵法意識とほぼ重なる。何をしてもいいという「自由」ではない。そこでは法規範は、自己の外部にあるものではなく、「自己立法」とあるとおり、みずから立法した法規範によってみずからを律する内在的なものとしてある。「法のないところに自由はない」(ジョン・ロック)という意味であり、近代の民主制(デモクラシー)の根幹である。

ジョン・ロックの英国をはじめ、欧米の近代社会ではおおよそ上の引用にあるように、封建制との激しい闘争をくぐり、「自由」の内実の転換と歩をあわせて社会の新たな秩序が形成されていったのだが、では、日本においてはどうであったのか?(以下、「」内は丸山真男「日本における自由意識の形成と特質」1947)
たとえば、封建制が揺らぎ始めた江戸後期、国学者たち(本居宣長ら)は、封建制を支えてきた儒教規範の偽善性を激しく攻撃したが、「外部的拘束としての規範に対して単に感覚的自由の立場に立てこもること」に終始し、「人間精神を新しき規範の樹立へと立向わせるもの」とはならなかった。





上の丸山真男の議論から、いろいろと考えさせられることがある。

日本において「自由」なるものが、既成の権威(規範)に対する批判や反発として発現されることはよくあっても、それが既成の規範に変わるべき新たな規範とそれにもとづく新たな秩序の形成を促す「内面的エネルギー」として理解され表現されたことはどのくらいあったのだろうか、と思わずかえりみた。
「権力」「反権力」という二分法的発想にも「自己立法としての自由」の関与はうかがえない。「拘束」する側と「拘束」から自由になろうとする側とがぶつかっている。仮に後者が権力を握ったとしても、「新しき規範の樹立」は見られず別の「拘束」が始まるだけのような気がする(たとえば、「明治維新」)。

いや、この社会の「自由」は、権力への批判や反発というかたちでなくとも、政治的なものに背を向ける、というかたちであらわれることのほうが多いかもしれない。たとえば「音楽(アート)に政治を持ち込むな」「批判はやめよう」と言ったりする人にとっての「自由」とはどういうものなのだろう? そもそも「表現(音楽)の自由」とは近代の市民革命(批判的行動)がかちとった新たな規範であったはずであり、それはたえず「遵守」する意志によってかろうじてそうあり得ているはずのものだろう。どうして戦時期に「うたってはならない歌」があんなにたくさんあったのかを思えば、政治家たちや軍人たちこそ「うた(アート)の力」を知っていた(恐れていた)ということを逆に証明していることになる。

何か、この社会では、「自由」が、また「個人」なるものが、その定義(内実)が議論されないまま、非歴史的な単語として、「感覚的」な情動として何となく流通しているように思える。どうだろうか? 

中野好夫は、敗戦直後に、日本の歩んできた道を振り返り、次のように書いた。

「国民さえしっかりしていて誤らなければ、旧憲法(帝国憲法)であろうと軍閥の独裁くらいは結構防げたはずである。従って問題は国民自身にある。少数党閥の独善独裁に国を誤らせたのは、一にも二にも国民自身に責任がある。この苦い経験にかんがみても、私はもはや日本再建は個人の向上、個人の完成以外に手はないと信じている。」
(「若い人々のために」1945-6)

当時、中野が、「個人の向上、個人の完成」をなぜこれほど強く「若い人々」に訴えたのか。そして、その後、70余年をかけて、この社会は「個人」を中野の言うようなそれへと向上させてきたのだろうか。


現行憲法(戦後憲法)第13条 すべて国民は、個人として尊重される。
自民党憲法草案(改憲案)第13条 全て国民は、人として尊重される。


いま、またこういうところまで来てしまっている。

中野の問題提起は、いまなお重い問いだ。

(つづく)




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