井上俊夫『初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』
今回も、前回と同じく、戦争体験者が書いた本の「あとがき」の一節を引用したい。 今回、取り上げるの は、詩人の井上俊夫さん( 1922ー2008)の著書、『 初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』 (岩波現代文庫、2005年刊)。 その本のカバー折り返し部に記されている、本の紹介コピーをまず引用してみる。 「中国の戦線で、捕虜の刺殺訓練をさせられた著者。以来六十余年、戦死した友の眠る故郷の墓地で、八月十五日の靖国神社で、半世紀近くたって参加した戦友会で、自身の戦争体験や、軍隊、戦争そのものの正体を問い、老日本兵は、歩き、考え、書く。『お前は中国でいったい何をしたのか』、終わらない問いを抱え記したエッセイ集。」 では、この本の「あとがきに代えて」の一節を以下に引用する。 「 ……若者から『そもそも(戦争に赴いた)あんたがたに戦争に反対する資格があるのかよ』と言われたら私には一言もないのである。先に私は日本の近現代史をきっちりと学んで、確固とした歴史認識と反戦平和の論理を構築していないと、たやすく侵略戦争の尖兵にされるといった偉そうなことを書いた。しかし、天に唾するとはこのことである。 いくら国家の強権が背後にあったとはいえ、いくら幼少の頃から皇国史観と軍国主義による徹底した教育を受けていたとはいえ、たやすく兵士となり、たやすく戦線に赴き、侵略戦争の尖兵として働いてきた私には、もともと戦争に反対する資格がないのだ。十日の菊という言葉(時機に遅れて役立たないこと)があるけれど、半世紀以上もの時間が流れてしまった今頃になって、殊勝顔で反戦平和を唱えたところでなんにもならないのではないか。 それよりも中国兵捕虜の虐殺に加担したおのが罪責を認め、ひたすら反省し、謝罪し、沈黙を守るべきではないのか、といった思いにつきまとわれることしばしばである。 しかし一方では、おのが若き日に犯したのと同じ過ちを、これからの若い人たちに繰り返させないために、恥多きおのが従軍体験をあからさまに語るべきであるという考えも起きてくるのだ。 …… 戦後六十年になんなんとする長い年月を続いている(ママ)日本の平和。だがこの平和はとても十点満点の平和とは言えない。悪いところ、危ないところがいっぱいある。けれどもどんなに「悪い平和」でも、またぞろ政府が唱えるかも知れない「善い戦争」よりも絶対にいい