「ぼくの好きな先生」
職場の元同僚に、Мさんという人がいた。
私より、15才ほど年上の「大先輩」だった。勤務地は違っていたが、年に何度か一緒に仕事をすることがあり、目先の仕事のこと以上に、生きる姿勢のようなものを無言のうちに教えてもらったように思う。
先月、そのМさんからの、最初で「最後の手紙」が、思いがけず出てきた。正確に言うと、大学の卒論の入った封筒に一緒に入れておいたのを忘れていたのである。
手紙の日付を見ると、1996年7月。神戸の震災の翌年だ。
Мさんは、その前年、癌が見つかり闘病生活に入っていた。秋口だったか、東京にいるМさんを、同僚の先輩とともに病院に見舞いにうかがったことがあった。車椅子に乗ったМさんは、中庭に出て、私が持って行ったライブの収録テープ(私の下手なギターも入っていた)を楽しんでくれた。
そして、その翌年、「最後の手紙」が私の手元に届いてからほどなく、Мさんは旅立たれた。
手紙の最後には、「どうかどうか元気で、いつまでも〇〇さん(私の名前)でいてください。」と書かれていた。いま読み返しても、胸が詰まる。
Мさんからの手紙を20数年ぶりに読み返し、今年(2023年)の3月に亡くなった坂本龍一さんのことを改めて思い起した。いつだったか何かの拍子に、Мさんが「坂本(龍一)は生徒だったんだ」と、ぽつんとひと言、もらしたことがあったからだった。
それで今回、坂本龍一さんが通い、Мさんが先生をしていた「都立新宿高校」同窓会のホームページを見てみることにした。そこに坂本龍一さんのインタビューが掲載されていたので、それを読んでみると、なんと坂本さんはそのインタビューでМさんのことをあれこれ話しているではないか! 驚きもし、また、そうだよなあと深く得心した。
これまで私が述べきた「Мさん」とは、以下、坂本さんがいう「前中先生」のことである。
すこし長くなるが、同窓会ホームページから、坂本さんのインタビュー記事を引用する(新宿高校PTA 「同窓生インタビュー」2011年12月)。
ー 印象深い先生は?
ー(坂本龍一) 面白い先生は何人かいて、その中でも一番印象に残っているのは現国(現代国語=
現代文)の前中先生。一年坊主で入学して最初の授業が現国で、そこにやって来たのが前中先生だったんですけど、言うことが過激でびっくりして。いきなり「俺はお前らには何の興味もない!」とか言うのでかっこいいと思って。授業が終わってすぐ職員室まで追いかけていって、「僕、今の授業を聞いていた坂本といいますが、あなた面白い」とか言って、すぐ友達になったんです。身分は教師と生徒ですけど、高校在学中に一緒にスキー行ったりとか、もう時効だから言ってもいいと思うんですが、一緒に酒を飲みに行ったりとか(笑)、ずっと友達づきあいでした。だから学校を離れている時はお互い呼び捨てで、向こうは「サカモト」、僕は「マエナカ」と呼んでいました。
ーお若い先生だったんですか?
ー(坂本龍一) いや、四十才くらいだったのかな。めちゃくちゃ頭の良い人で、面白くて弁が立って。先生同士の間でも人気があって、前中の周りに集まっている先生達が五、六人はいましたよ。その先生達がたむろっている場所が美術教官室だったのね。美術教官室は美術室の奥に独立してあるので、みんなの目があんまり届かない(笑)。好きな事ができる溜まり場になっていたの。普通は体育の教師なんかだと右寄りだったり保守的な人が多いんだけど、体育の教官なんかもみんなその“前中派“なの。仲間が多くてそこはものすごく楽しかったです。
(引用、おわり)
上の坂本龍一さんの話を読んで、たしかにМさんならそうだろうなあ、と思った。坂本さんはまた、別のインタビューで(「毎日新聞」2016年)、「彼(Мさん)が病気の時、コンサートで『マエナカにささげる』と言って演奏したこともあります。亡くなってしまいましたが、彼が当時話した言葉の意味が今になってわかったり、いまだに大きな存在です。」とも、語っている。
前回、私はこのブログで「岬めぐり」の話を書いた。
今回、Мさんの話を書いておこうと思ったのは、もちろんあの「最後の手紙」が思いがけず出てきたからであるが、それ以上にどこか、私にとっての「岬めぐり」をしておきたい、と思ったところもあった。
そして、坂本龍一さんも好きだったという、忌野清志郎さんの歌った「ぼくの好きな先生」(1972年)を、Мさんに重ねて思い起こした。
Мさん! こんど会っても、「お前は変わっていないよなあ」と言ってもらえるように、残り少ない人生をしっかり歩んでいきます。そのときまで、もうしばらく待っていてください。
コメント
コメントを投稿