老いの繰り言(その1?)
何かの折に、たとえば、たまたまテレビで見ていた映画や、たまたま耳にしていた楽曲に触発されて、わが身の過去のあれこれが、ふと思い起されることがある。しかも、その思い出されることとは、どういうわけか、「懐かしい」という感懐につながるような楽しいことというよりも、「どうして、あのとき、あんなことをして/言ってしまったのだろう?」というような、悔やまれることのあれこれのほうが多いのである。
それが以前より増えたような気がする。
もちろん、楽しい思い出がないわけではない。しかし、それらは「感触」のようなものであって、はっきりとした「像」は結ばない。あるいは、像を結びそうな思い出であっても、その続きに楽しくない思い出がときに控えてもいて、あと一歩のところでその像もやはりぼんやりとしてしまう。それに比べると、「悔やまれること」のほうは、そのとき、その場所で交わされた「言葉」も、表情も、いまなお鮮明なのである。「感触」ではなく、それは「言語」で想起されるものなのだ。
老いて思い出されることは、悔やまれることばかり……これは、どうしたものか。
しかし、と考えてみる。
その出来事があってから数十年も経ったいま、たぶんその相手(関係者)はもうそれを覚えていないかもしれないだろうから(そう願う)、誰かとの関係で生じた出来事だとしても、それは、この私自身に固有の経験であったということになる。またそれは、「二度と同じ間違いをおかさない」というような処世訓に導くような完結したものではなく、なお現在進行形のものである。
そうであれば、ときにヒリヒリもするようなこの想起は、好んでするものではないせよ、やはり、私自身の思考や行動の「核」をつくってきたものであり、現在も私を私にさせている契機の一つとしてあり続けているものなのだろう。そこに意味があると考えれば、それを無理に記憶から消すこともないし(どだい消せないし)、その想起から逃走することもない。答えのない「問い」の周りをぐるぐると回り続けてきたのだから、それを続けるだけだ。
ぐたぐたと書かでものことを並べてしまった。まさに「老いの繰り言」である(お許しを!)。その口直しに、70歳を前にして書き残した荷風先生の言葉を引用し、この記事を結ぶとことにしたい。先生の思念にはとても及ばないと、わきまえつつ…。
「 回想は現実の身を夢の世界につれて行き、渡ることのできない彼岸を望む時の絶望と悔恨との淵に人の身を投込む……。回想は歓喜と愁歎との両面を持っている謎の女神であろう。」(永井荷風「雪の日」)
(口直し その2)
若い、ロカビリーバンドが、先日このブログでも取り上げた「真夏の出来事」を自分たちの楽曲にしている動画がある。つい最近知った。なれ合いとは無縁の、たがいに信頼し合った、文字通り「band」であるということが伝わってくる。ウッドベースをはじめ(ヘッドフォンで聴いてみてください)、一人ひとりのたたずまいも、とてもがすがすがしい。
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