1971年のエレキベース(1) 「真夏の出来事」
昨年10月、作曲家の筒美京平さんが亡くなったあと、追悼番組がいくつかあった(ようだ)。私はその一つを見たのだが、彼が作った曲のうち、「また逢う日まで」(1971年、歌:尾崎紀世彦)や「木綿のハンカチーフ」(1975年、歌:太田裕美)などを取りあげていたが、どういうわけか、「真夏の出来事」(1971年、歌:平山美紀)は出てこなかった。
聴く人ごとに当然印象は違うだろうが、当時それらを聴いた私は、「また逢う…」は楽曲とあいまって男女の別れを大げさに歌いすぎだなあと、また、「木綿の…」は「都会と田舎」というステレオタイプの対比に、これって都会育ちの作詞家の自分勝手なファンタジーやなと思った。いずれも、そのいささか過剰な物語性が鼻についたのだった。それに比べ、「真夏の…」は、物語があるかないかわからないくらいの、その淡白さが好ましかった。
(「真夏の出来事」歌詞一番)
彼の車に乗って 真夏の夜を走り続けた
彼の車に乗って 最果ての町 私は着いた
悲しい出来事が起こらないように
祈りの気持ちを込めて 見つめ合うふたりを
朝の冷たい海は 鏡のように映していた
朝の冷たい海は 恋の終りを知っていた
歌のストーリーは、上のように、はじめから「別れ」が予期されおり、そして、結末部で、そのとおりに別れるのだが、歌手・平山美紀の乾いた声、いや、あの「はすっぱな声」(誉め言葉です)が、その「別れ」に湿った情緒のかけらもまとわせることがない。「悲しい出来事が起こらないように…祈りの気持を込めて」としつつ、しかし「朝の冷たい海は恋の終りを知っていた」と、客観的に自分(たち)を見る、さめた目を失わないのだ。これが、「また逢う日まで」「木綿のハンカチーフ」との決定的な違いなのだと感じた。
そういう意味で、この「真夏の…」のすべては、歌の内容以上に、情緒的なものを寄せつけない平山美紀の「声」そのものにある。「彼の車に乗って」という一見「従属的」にも思える歌詞に反して、「見つめ合うふたり」の主導権を握っているのは、あくまで女のほうである。反対に言えば、歌から男の顔はまったく浮かんでこない。最後に「グッバイ」と言い放って去っていく女の後ろ姿があざやかだ。
50年まえにラジオで聴いたときに、平山美紀のあの「声」の質感を支えていると感じたのが、イントロから最後まで力強く刻まれる、16ビートのエレキベースのリフ(+ リズムセクション)だった。テンプテーションズの「マイガール」のイントロの向こうを張っている。しかも、「真夏の出来事」のほうでは、サビの部分でベースがもうめちゃめちゃ疾走するのだ。声を聴いているのか、ベースを聴いているのか、わからないほどだった。おんぼろトランジスタラジオのスピーカーではベース音はなかなか出ないので、ラジオに耳を当てて聴いた。音楽性はこんなに高い(と思う)のに、しかし、物語性がないと、筒美作品のなかでも「二番手」になるのか? 「新しい日本の歌謡曲」を感じたんだがなあ…。
ところで、最近、このベーシストが寺川正興さん(1939ー2001)であると知った。1971年にこんなベースを弾いていたなんて驚きでしかない。
(つづく)
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