ある学者の「遺言」  加藤周一ノート(5)

1936年、東京府立一中から第一高等学校(現東大駒場)に進学した加藤は、「理科(理系)の学生のために設けられていた『社会法制』という矢内原忠雄(やないはらただお)教授の講義を聞いた」。そのなかで、矢内原は復活した現役武官制を取り上げ、「内閣の軍部大臣を現役の軍人とするという制度を利用することで、陸軍は責任内閣制を実質的に麻痺させることができる」と話した。そして、学生の一人が、たとえ陸軍が内閣の成立を阻んだとしても内閣はそのままで頑張れないのかと、質問した。矢内原は、しばしの黙考のあと、次のように答えたという。

 

「『そうすれば(内閣が軍部に抵抗したら)、陸軍は機関銃を構えて議会をとりまくでしょうね』。ーー教場は一瞬水を打ったようになった。私たちは、軍部独裁への道が、荒涼とした未来へ向かって、まっすぐに一本通っているのを見た。そのとき私たちは今ここで日本の最後の自由主義者の遺言を聞いているのだということを、はっきりと感じた。(一高入学直前に起きた)2・26事件の意味はあきらかであり、同時に私にとっては精神的な勇気と高貴さとが何であるかということもあきらかであった。」(加藤周一)

矢内原忠雄(1893-1961)は、当時、東京帝大経済学部の教授(植民地政策)であったから、一高にも週一回、講義に来ていたということだろうか。私も矢内原の植民地政策論(『植民政策の新基調』1927年)を読んだことがある。台湾や朝鮮に対する日本の植民地政策の問題点を経済学の視点から統計も利用して的確に指摘していた。その方法と冷静な態度に感銘を受けたものだ。その議論の根本には彼の信仰(キリスト教)が篤くあった。加藤が「精神的な勇気と高貴さ」と書いたのはその信仰とも関わる言葉であろう。また、矢内原は、この講義をおこなった翌1937年、日中戦争が始まった年に、論文が「問題視」され東大を追われることになる。そのことも含め、「日本の最後の自由主義者の遺言」と加藤は書いているのである。

 京大闘争」(滝川事件、1933年)に学生として主体的に関わった久野収は、「京大事件(滝川事件)の一番目立った特色は、”危険思想”の内容が、もはや共産主義思想やマルクス主義といった嫌疑にあるのではなく、国家の現状を百パーセント肯定せず、いわゆる国策に批判的な態度をとる学者たちの思想内容におよんで来た」と書いたが、状況はさらに悪化し、「東大闘争」どころか、矢内原を擁護する「声」は上がらず、矢内原ひとり東大を去って、ことは終わったのである。学生たちに対する矢内原の言葉は、文字どおり「遺言」であった。


(付言) 日本の植民地支配に対する矢内原の批判は中途半端(欺瞞)だったと、80年代以降、非難する「研究者」がいる。そういう議論はあっていいが、人はそれぞれの時代とさまざまな制約のなかで生きるのである。それを忘れた、ないものねだりのような、あるいは鬼の首を取ったような議論は、私の心に響いてこない。


 (つづく)

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