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「戦争が生んだ子どもたち」

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 YouTubeで、大阪の朝日放送が数年前に制作した『戦争が生んだ子どもたち』というドキュメンタリー番組(↓)を観た。 タイトルにあるように、日本の敗戦後、日本に進駐してきた米軍兵士と日本人女性のあいだに生まれた子どもたちの物語(戦後史)だ。 彼ら、彼女らの話は、また、今なおこの社会がかかえる問題をあぶりだしている。決して「終わった話」ではない。番組では、三人の、いわゆる「GIベビー」の足跡が紹介されるが、一番初めに出てくる「青木ロバート」さんの部分だけでも(約20分)、よければ、観ていただきたいと思う。 青木さんの父は黒人兵、母は基地関係の仕事をしていたひとだ。父の帰国後、養護施設にあずけられ、苦難の道を生きた彼の言葉は重く響く。 そして、私が小学生だったとき、一学年上にいた、青木さんと同じく、黒人兵とのあいだに生まれたであろう、女生徒のことが思い出された。背が高く、足の長い彼女は、運動会ではひときわ目立っていた(少年の目には、まぶしく見えた)。学年もちがい、彼女がどんな学校生活を送っていたのか、当時はよくはわからなかったが、青木さんの話を聞きながら、あの時代を生きた彼女がかかえていたであろう思いの一端に触れえたように思った。 彼女が、いま日本のどこで暮らしているのか、それとも米国で暮らしているのかはわからないが、どこであれ、幸せな日々を送っていることを願った。 『戦争が生んだ子どもたち』

学徒兵「木村久夫」の遺書

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  『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の遺書』という本(東京新聞、2014年)を読んだ。本の帯には次のように記されている。 「戦没学徒の遺稿を集めた『きけ わだつみのこえ』の中で特に重要とされる京大生・木村久夫の遺稿。 しかし、『わだつみ』に収録された遺書は、二つの遺書を合わせて大幅に編集されていた。知られざる「もう一通の遺書」を発掘し、改変を明らかにし ……その二通の遺書全文を掲載し……木村の人生とその最期の思い、木村が戦犯に問われた事件の真実に迫る。」    木村久夫は、 1918年、大阪府吹田市生まれ。府立豊中中学(現豊中高校)、旧制高知高校(現高知大学)を経て、1942年4月、京都帝国大学経済学部に入学。43年に出征、インド洋のカーニコバル島に駐屯し、住民対策に当たる。終戦間際の45年7月、島であった「スパイ」事件の取り調べを命じられ、その時に拷問により死者を出したとしてシンガポールの戦犯裁判で死刑判決を受ける。46年5月23日、 チャンギ刑務所で処刑執行。(同書より)    木村は、死刑執行のひと月前、愛読書だった田辺元『哲学通論』を手に入れ、むさぼるように読み、そして、その本の余白に、死をまえにした自らの思いを書き綴った。ほんの一部だが、以下に引用する。   「私は生きるべく、私の身の潔白を証すべくあらゆる手段を尽くした。私は上級者たる将校連より法廷のおける真実の陳述をなすことを厳禁され、それがため、(住民拷問の)命令者たる上級将校が懲役、私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理である。 ……  もしそれ(木村の陳述)が取り上げられたならば、数人の大佐、中佐や、数人の尉官たちが死刑を宣告されるであろうが、それが真実である以上当然であり、また彼らの死をもって、この私が救われるとするならば、国家的見地から見て私の生のほうが数倍有益であることを確信したからである。  美辞麗句ではあるが内容の全くない、精神的とか称する言語を吐きながら、内面においては軍人景気に追従し、物欲、名誉欲、虚栄以外には何ものでもない、われわれ軍人が過去においてなしてきたと同様、仮に将来において生きるも何ら国家に有益なことはなし得ないこと明白なることを確信するのである。 ……  彼(上級将校)が常々大言壮語して止まなかった、忠義、犠牲的精神、その他の美辞麗句も、身に装う着物以外の何

「戦争は知らない」

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今年も、 8月15日に、 全国戦没者追悼式が日本武道館でおこなわれた。 毎年、その報道に触れるたびに、首相が読み上げる「式辞」の、ある決まった文言が気になるのだ。 その文言とは …。   「先の大戦では、 300万余の同胞の命が失われました。  祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃れた方々 …(略)  今、すべての御霊の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。  今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであること を、私たちは片時とも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。 ……」    「 300万余の同胞の命が失われました」…「同胞」とあるが、そこに「帝国」の一部にされた朝鮮、台湾出身の兵士・軍属は入っているのか、ということは、いまは問うまい。  しかし、毎年繰り返される「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものである …」という文言が、私にはまったくわからないのだ。  食糧や弾薬の補給も絶たれ、いや、その計画もないまま強行された愚かな作戦のため、送りこまれた戦場で、多くの兵士らは、「祖国」(政府・軍部)をうらみながら、あるいは病死し、あるいは餓死したのである。その数は、 230万人を超える戦死者全体の半数以上を占める、というではないか。  かれらの「尊い命」は、無責任で無謀な作戦を立案し強行した「祖国」(政府・軍)によって奪われたのだ( 「特攻」作戦を含め てよい)。国家の戦争責任とは、対戦国や占領地(の人びと)にたいしてはもちろん、自国民にたいしても重くある。だから、戦没者に対し「衷心より、敬意と感謝の念を捧げます」という決まり文句は、毎年、聞いてあきれるのだ。そんな寝言をいうまえに、国家(政府)はまずもって、おのが過誤を反省し、その決意の表明として、自国民か他国民かを問わず、死者たちにたいして頭を垂れるのが、ものの順序というものだろう。  しつこいようだが、自分たちは安全な場所にいて無謀な戦争計画を立案し、作戦を強行した連中(その 多くは戦後も生き延びた)と、前線で心ならずも、いや、国を恨みながら斃れた「戦没者」たちとを同列におくことは、ゴマカシだ。  そしてまた、そのような戦争「指導者」たちの暴走(犯罪)を許してしまった「国民」

井上俊夫『初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』

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今回も、前回と同じく、戦争体験者が書いた本の「あとがき」の一節を引用したい。 今回、取り上げるの は、詩人の井上俊夫さん( 1922ー2008)の著書、『 初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』 (岩波現代文庫、2005年刊)。 その本のカバー折り返し部に記されている、本の紹介コピーをまず引用してみる。 「中国の戦線で、捕虜の刺殺訓練をさせられた著者。以来六十余年、戦死した友の眠る故郷の墓地で、八月十五日の靖国神社で、半世紀近くたって参加した戦友会で、自身の戦争体験や、軍隊、戦争そのものの正体を問い、老日本兵は、歩き、考え、書く。『お前は中国でいったい何をしたのか』、終わらない問いを抱え記したエッセイ集。」   では、この本の「あとがきに代えて」の一節を以下に引用する。   「 ……若者から『そもそも(戦争に赴いた)あんたがたに戦争に反対する資格があるのかよ』と言われたら私には一言もないのである。先に私は日本の近現代史をきっちりと学んで、確固とした歴史認識と反戦平和の論理を構築していないと、たやすく侵略戦争の尖兵にされるといった偉そうなことを書いた。しかし、天に唾するとはこのことである。  いくら国家の強権が背後にあったとはいえ、いくら幼少の頃から皇国史観と軍国主義による徹底した教育を受けていたとはいえ、たやすく兵士となり、たやすく戦線に赴き、侵略戦争の尖兵として働いてきた私には、もともと戦争に反対する資格がないのだ。十日の菊という言葉(時機に遅れて役立たないこと)があるけれど、半世紀以上もの時間が流れてしまった今頃になって、殊勝顔で反戦平和を唱えたところでなんにもならないのではないか。  それよりも中国兵捕虜の虐殺に加担したおのが罪責を認め、ひたすら反省し、謝罪し、沈黙を守るべきではないのか、といった思いにつきまとわれることしばしばである。  しかし一方では、おのが若き日に犯したのと同じ過ちを、これからの若い人たちに繰り返させないために、恥多きおのが従軍体験をあからさまに語るべきであるという考えも起きてくるのだ。  ……  戦後六十年になんなんとする長い年月を続いている(ママ)日本の平和。だがこの平和はとても十点満点の平和とは言えない。悪いところ、危ないところがいっぱいある。けれどもどんなに「悪い平和」でも、またぞろ政府が唱えるかも知れない「善い戦争」よりも絶対にいい

飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』

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戦争体験者が次々とこの世を去っている。 1945年に20歳だった若者も、お元気なら、現在、100歳くらいである。 体験者が亡くなり、戦争の実相が見えにくくなると、その実相を知らない者たちが、兵士たちが「大義を尽くした」だの、「お国のために命を捧げた」だのと、おのれに都合のよい「戦争像」を捏造しかねない。いや、「特攻」の美化をはじめ、それはとっくに始まっている。 だから、戦争体験者(兵士だけでなく一般市民も)の話に耳を傾け、そこから何かを学びとる姿勢が、これまで以上に、大切になっていると、私は思う。世界各地で戦争が残忍なまでに露呈してきている現在、ほんとうに戦争(武力行使)の実相をいま一度見つめなければならないだろう。   亡父( 1915年生まれ)は、徴兵検査後、そのまま中国戦線におもむいた(送られた)が、みずからの戦争体験について語ることはなかった。私も、それについてたずねることは憚られ、具体的な話は何も聞いていない。ただ、私が学生だった頃(1970年前後)、何かの拍子に、私が「社会を変革するためには、革命戦争が必要となる」と言うと、父から「何を馬鹿なことを言うか!」と激しく叱られたことがあった。いつも穏やかだった父から、叱られたことは、後にも先にも、このときだけだった。それくらい「戦争」体験者として、父はどんな名目であれ「戦争」を忌み嫌っていたのだと、あとから思ってみたのだった。私も、馬鹿なことを言ったものだと、のちに深く反省した。   そんなこともあって、その後、戦争体験者たちの手記(体験記)を読んでみるようになった。中国大陸、ビルマ、フィリピン、インドネシア、ガダルカナル、ニューギニア …そして、シベリヤのラーゲリ。 今回は、手元にある手記のひとつ、飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』( 2008年、新潮新書)から、その末尾におかれた「おわりに」の一節を以下に引用してみたい。引用にどどめるのは、飯田さんの言葉の前では、どんな言葉も「きれいごと」になりそうだからである。   飯田進さんのプロフィールを本からそのまま引いておくと …。 「一九二三(大正十二)年京都府生まれ。昭和十八年二月、海軍民政府職員としてニューギニア島へ上陸。終戦後、 BC級戦犯として重労働二十年の刑を受ける。昭和二十五年スガモ・プリズンに送還。現在、社会福祉法人「新生会」と同「青