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忘れえぬ映画館(2)「京一会館」

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  前回取り上げた「 祇園会館 」は京都の中心部(繁華街)にあった大きな映画館だが、今回取り上げる「京一(きょういち)会館」は、いささか場末感も漂う、街はずれの小さな映画館だった。庶民的な市場の階段を上った二階にあった(↓)。 場所は、左京区一乗寺。学生向けの下宿やアパートが多くあったところだ。だから主だった客層は、当然「学生さん」たちとなる。叡電(えいでん、「叡山電鉄」)の一乗寺駅からすぐなので、この電車を利用して、通称 「 鴨川デルタ」横の、始発駅「出町柳」方面から来る観客も多かった。   映画3本立てで、300円~500円くらいの格安の入場料だったかと記憶する。ロードショウ館ではないが、そのぶん、名画からヤクザ映画まで、見逃していた映画を格安料金で観ることができるのもありがたかった。また、週末にはオールナイトの上映もあった。高倉健さん主演の、『 日本侠客伝 』や『 網走番外地 』シリーズをオールナイトで観たこともあった。そういえば、映画の上映中、健さんが 殴り込みに向かう 場面などでは、「健さん!」とか、「待ってました!」とかいう掛け声が、客席のそこかしこから上がったものだ。映画を観終わり、東の空が白みはじめた街を、映画の余韻に浸りながら「オレももう少し頑張ってみるか」と自分に言い聞かせ、下宿まで自転車をこいで帰った、あの朝が思い出される。 しかし、この映画館も1988年に閉館していたということを、つい最近知った。 その「最後の日」を記録した映像がYouTubeに出ていた(↓)。映画の上映が終わると、観客たちから盛大な拍手が送られる。そして支配人から、感謝の気持ちを伝える「最後の挨拶」がある(聞き取りにくいが…)。その場に立ち会うことはできなかったが、YouTubeの映像に向かって、私も小さな拍手を送った。「京一会館さん、本当にありがとうございました!」  

忘れえぬ映画館(1)「祇園会館」

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グーグル・ストリートビューで、以前訪れたところを「散歩」してみることが、ときどきある。 いまから50年以上も前のこと(1970年前後)、学生時代に親しんだ、京都のあの場所、この場所をたどってみたりもしたが、いずれの場所もその当時の面影はほとんどない。その歳月を思えば、それも当然のことだろう。 それでも、かつての「残り香」を求めて、パソコンのマウスを動かし続けている自分が、どこかいじらしい。  留年や転学部を重ね、人様の倍近く、大学に籍だけはおいていた(当時、国立大の授業料は月1000円、バイトすれば何とか支払えた)。授業にはほとんど出なかったが、バイトのない日は、街のそこかしこにある映画館によく足を運んでいた。  大学で所属したサークルも「映画部」(いわゆる「映研」)。中学生のころに映画の面白さに目覚め、高校のころには背伸びして「アートシアター」系の映画館にも出入りするようになっていた。それで、大学入学後、迷わず映画部に入ったわけだった。  さて、映画部に入ったといっても、私の場合、映画を自主制作することもなく(才能もなく)、あちこちの映画館を回って、学割で映画を観てただ楽しんでいただけだったのだが…。 また、映画サークルの活動資金をつくるため、大学の古びた講堂で(学生が自主管理していた)、映画の上映会などもときどき催していた。 その当時、映画はまだフィルムの時代。先輩から35ミリ映写機の扱いかたを教えてもらい、何とか「映写技師」の真似事くらいはできるようになった。配給会社から京都駅に届いた、缶に入ったフィルム(↓)をつめた包みを受け取り、それを抱えて市電に乗って大学まで運んだものだ。宅急便などない時代の話である。 映画フィルムのひと巻き(リール、reel)は、大体15分から20分くらい。だから2時間ほどの映画なら、フィルム巻数は全部で6~8巻ほどになる。観客席の後ろ、すこし高くなった映写室には映写機(↓)が2台並んで設置されており、二人一組で映写を担当する。フィルムひと巻きの映写が終わるタイミングで(スクリーンの画面右上に小さな点が出てくる)、隣の映写機にセットしておいた次のリールを回し始める。これを交互に繰り返しながら、映画全体を切れ目なくつないでいくのである。 さて、ここからが本題なのだが、よく出入りしてい...

ありがとう、ヒデマロさん!

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憂歌団のマネージャーをしていた、ヒデマロさんが、昨年(2024年)1月にお亡くなりになっていたことをつい最近知った。 1952年生まれとのことだから、72歳での死だったのか。 (↓ ヒデマロさんの追悼ライブ 2024年5月21日 at 梅田TRAD:旧バナナホール) 彼と親しく交流したわけではないが、あるイベントで憂歌団のボーカル、木村充揮(あつき)さんの出演をお願いしたことをきっかけに、その後の音楽イベントでもお世話になり、また、扇町公園近くのビルの一室にあった音楽事務所で談笑したり、あつかましくも京都のご自宅でご馳走にあずかったことまであった。いい思い出しかない。 1970年代、京都のライブハウス「拾得(じっとく)」「磔磔(たくたく)」や京大西部講堂などを舞台に展開された、ロック、ブルースのムーブメントを、プロデューサーの立場から牽引したお一人だった。無念なことである。 YouTubeを見てみると、ヒデマロさんが歌をうたっている映像があった。ご自身で楽曲もつくり、歌までうたっていたとは驚きだった。 そのなかに、阪急東通り商店街(商店街といっても実質は飲食店街)を舞台にした「黄昏 東通り」という曲があった(↓)。 1990年前後のころだったか、東通り商店街の一番東の端にあるライブハウス「バナナホール」でライブを彼と一緒に楽しんだ後、近所の立ち飲みバーに連れて行ってもらい、遅くまで楽しくすごした夜のことは今も忘れることはない。もうそのバーはなくなっているみたいだけど…。 ヒデマロさん、そっちの世でも「もう一杯!」って、今夜も楽しんでいますか?

LAが燃えている。

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1970 年代の後半 、放浪生活をしていた私 (20代後半) が暮らした街、ロサンゼルス。 いま、その街が燃えている。 私が住んでいたのは、山火事が起きている郊外ではなく、ロサンゼルス市の中心部(ダウンタウン)だった。 その 中心部には高層ビルが並び立つビジネス街もあるが、その外れにある日本人町「リトルトウキョウ」の 、月極60ドルくらい(当時)の安アパートで暮らしていた 。 路上生活者たちの多くいる 「 スキッドロウ (skid row)」とよばれる 地域に 隣接する ところでもある 。 現在、 ダウンタウンは延焼してはいないようだが、 下の 映像を見ると、周辺部から流れ込む煙に 覆われて 、太陽が出ているはずなのに、ダウンタウン全体はうす 暗い (ロサンゼルス市庁舎上階から撮影されたものと思われる) 。 降灰もかなり深刻なのではないかと思われる。   上の映像の「 35秒」くらいからリトルトウキョウの街並みが映し出される。 50秒過ぎから、二つの白く、背の高い建物が見えてくるが、左は「カジマビル」(1967年竣工、鹿島建設)、右 は「 Double Tree by Hilton Hotel」(旧ニューオータニホテルLA、1977年オープン)だ。そして、その二つの建物にはさまれたところ、映像最下部に見える通り(First Street)に面して三角形の形状の三階建ての小さな建物が見えると思う。じつは、私はこの2階の角部屋に住んでいたのだ。この街で知り合った日系3世T君の叔母さんもそこで一人暮らしをして いて、いろいろと助けてもらった。 報道は、もっぱら「セレブ」たちが多く住む地域の火災被害に注目しているようだが、ダウンタウンに暮らす人びと(路上生活者を含む)の健康や暮らしも気がかりだ。どうか彼ら、彼女らのことも忘れないでほしい。 そして、今日、1月17日は、「阪神淡路大震災」から30年にあたる日。 あの光景を忘れることはない。 お時間のあるかたは、 こちら (「ソウルフラワーみちのく旅団・被災地出前ライブ」 )もご覧になってみてはいかがでしょう。

追悼・火野正平さん

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昨年の今頃(23年11月)、「同輩のミュージシャンたちがつぎつぎと亡くなっていく」という 記事 を書いたのだが、今年もつい先日、俳優の火野正平さんの訃報に接した。 俳優としての火野正平さんについては、出演映画もテレビもほとんど観なかったからよくわからないのだが、NHKBSでずっと続いていた「日本縦断こころ旅」(↓)は、退職後よく観ていた。自転車旅の旅先で出会う人々とのやりとりにふと顔をのぞかせる正平さんの人柄や、「こころの風景」を投稿した人たちの思いに寄り添う姿にもふれ、おのれをかえりみること一再ならずであった。正平さんの生年は私と同じ、1949年。享年75。無念なことである。 上の動画の最後のほうに、長野県の、ある畑の中に立つ「一本のクルミの木」のまえで視聴者の手紙を読む場面が出てくる。その場面を観ながら、50年前、大学を出たあと、長野県の牧場で住み込みのバイトぐらしをしていたとき、毎日牛を追いながらよく見ていた、牧草地に凛と立つ「 一本のヤマナシの木 」を思い出した。まるで八ヶ岳連峰に対峙して立っているように見える、そのヤマナシノの木の孤高のたたずまいが、定職につかない(つけない)寄る辺ない私を、慰め、励ましてくれたものだった。「お前は、お前の道を行けばいい」と…。思えばあれは、私の「こころの風景」だったのかもしれない。 下の、正平さんの歌唱も、こころに響いてくるなあ。合掌。