「ヨイトマケの唄」

年末、お祭り騒ぎのテレビ番組には背を向けて(いや、普段からもほとんど観ないが)、YouTubeでドラマ「海峡」(NHK、2007年制作)を観ていた。

日韓(朝)の現代史(日本の敗戦、朝鮮の解放)を背景にした、ひと組の男女(韓国人男性・日本人女性)の哀切な物語で、考えさせられるところの多い、とてもよい作品だった(脚本:ジェームス三木、主演:長谷川京子・眞島秀和)。

2007年の日本(NHK)では、こんな作品を制作・放映できたんだ。日本の「いま」を思うと、ため息がもれる。

 

そんな思いを引きずりながら、最近、ずいぶん昔の歌だが、「ヨイトマケの唄」(丸山明宏=美輪明宏、1965年)や「山谷(さんや)ブルース」(岡林信康、1968年)を聴き直している。私が高校から大学にかけての頃、よく耳にした歌だ。

前者は、土木工事に従事していた(「土方(どかた)」をしていた)、亡き「かあちゃん」に対する「ぼく」の追慕の思いを、後者は、日雇い労働者のドヤ街「山谷」(東京都台東区・荒川区の一部)にくらし現場仕事にたずさわる「おれたち」の哀歓を歌っている。

最近の歌を聴くことはほとんどないが(ついていけない?)、上のような「地べたで生きる人びと」をうたう歌は、ほとんどないのではないか。

 

「ヨイトマケの唄」(↓)… 「ヨイトマケ」(*)の映像が出ていたので、下の動画を選んだ。歌もなかなかお上手。

(*)「ヨイトマケ」=「建築現場などでの地固めのとき、大勢で重い槌(つち)を滑車であげおろしすること。また、その作業を行う人。作業をするときのかけ声からいう。」(『大辞泉』)

 



 

そうそう…。

私は、定職に就いてからも腕時計はカシオの1000円時計で満足していたクチだから、最近、ロレックスの腕時計が数百万円もする(なかには1000万円越えも)と知ってビックリし、それ以上に、その高価な時計を身に付けたくて、わざわざレンタル屋(シェアサービスと言うらしい)に金を払って借りている人たちがいるということを知って、さらに驚いた。

地に足をつけていない見栄っ張りって、なんだか哀しいよね。(←金のない老人のひがみ? 強がり?)

 

ところで、作家・中野孝次(1925-2004)は、自身が『源氏物語』を読み通せなかったことについて、次のように書いている。

「おそらく王朝女流文学のあの宮廷的に洗練された美意識と、その閉鎖性とが、ぼくの体質に合わないのだと思う。あの和歌的・抒情的な情感も好みに合わないし、なによりも貴族社会と都市社会だけが唯一の現実であるかのような視野の狭さがやりきれないのだ。これはぼくの育ちの低さにも関係しているのだろうけれども。

……ぼくをひきつけたのはもっとごつごつしたものばかりだった。…(『今昔物語』は)その世界が社会の各層、日本全土にひらけているのがいい。…その地域のひろがりだけでも、想像力をかきたてられる。王朝文学には出てこなかった各層の人間。盗賊や兵(つわもの)や郡司や女や、そればかりか天狗や鬼や幽鬼まで登場する幅のひろさがうれしい。」(『中野孝次 今昔物語集』岩波書店))


中野の学識にははるかに及ばないものの、同じく『源氏物語』(王朝文学)挫折者の私は、この中野の見解におおいに共感できる(『源氏物語』愛読者のかたがいたら、ゴメンナサイ)。中野が「貴族社会と都市社会だけが唯一の現実であるかのような視野の狭さ」と書いたのは、中古の貴族たちに限った話ではあるまい。現代の政・財・官の「貴族」たち、その追従者たちもまた、「視野の狭さ」においては同等か、それ以下であろう(これは日本に限ったことではない)。貧困層の拡大、困窮者の増大にも知らんぷりである。

そんな思いもあって、「ヨイトマケの唄」や「山谷ブルース」をより一層聴きたくなったのかもしれない。

そして、それらの歌を聴きながら、学生時代(1970年頃)、木造家屋の解体作業(当時は機械を使わなかった。100%肉体労働)や、墓の建立作業のバイトをした日々が思い出された。親方たちは、みな、学生バイトに優しかったなあ。作業での多少のヘマは大目に見てくれ、カバーもしてくれた。仕事が終わって、土埃にまみれた身体を銭湯で洗い流したあと、みんなで飲むビールはほんとうにうまかった! そして、気楽な学生の分際ながら、ビールを手に「ヨイトマケの唄」や「山谷ブルース」を口ずさむと、そのコトバの切れ切れが心に一層沁みてくるのだった。

 

………

 どんなきれいな唄よりも 

 どんなきれいな声よりも

 ボクを励まし慰めた

 母ちゃんの唄こそ世界一

 (「ヨイトマケの唄」より)




 


 











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