「大阪で生まれた女」
BOROという歌手がいる。
本名、森本尚幸、1954年、兵庫県伊丹市生まれ。
BOROは、「ぼろ着」、「ぼろ車」の「ぼろ」から来る。「民衆の代弁者」として歌い、生きようと、みずからあえて「ぼろ=BORO」と名乗ったという(ウィキペディア)。
BOROの代表曲と言えば、「大阪で生まれた女」だろう(1979年)。
ちょうど、私が退去命令を受け、ロサンゼルスから京都に引き揚げてきて間もない頃だった。
30歳を過ぎたというのに、あてもなくその日暮しを続けていた私の耳に、ある日、「パッヘルベルのカノン」を想起させるようなハモンドオルガンのイントロが流れてきたのだった。ラジオの前に、くぎ付けになった。
「大阪で生まれた女」
(1)
踊り疲れた ディスコの帰り
これで青春も終わりかなと つぶやいて
あなたの肩を ながめながら
やせたなと思ったら 泣けてきた
大阪で生まれた女やさかい
大阪の街 よう捨てん
大阪で生まれた女やさかい
東京へは ようついていかん
踊り疲れた ディスコの帰り
電信柱に しみついた夜
(2)
たどりついたら 一人の部屋
裸電球を付けたけど また消して
あなたの顔を 思い出しながら
終わりかなと思ったら 泣けてきた
大阪で生まれた女やけど
大阪の街を出よう
大阪で生まれた女やけど
あなたについて行こうと 決めた
たどりついたら 一人の部屋
青春に 心をふるわせた部屋
(3)
大阪で生まれた 女が今日
大阪をあとに するけど
大阪は今日も 活気にあふれ
またどこからか 人がくる
ふり返ると そこは灰色の街
靑春のかけらを おき忘れた街
男とともに夢を追いかけ、住み慣れた街を離れて見知らぬ東京へと向う「大阪で生まれた女」。
歌には、彼女の決意と不安の入りまじった切なさが出ていて、「電信柱に沁みついた夜」という詞(暗喩)の巧みさも含め、わが身の来し方を思い、ソウルフルなその歌全体が強く心に残った
歌は東京へと向かう場面で終わるのだが、この女の行く末が気になりもした。
この歌を初めて聴いてから10数年後だったか、「大阪で生まれた女」は、もともと18番まである30分ごえの長い曲であること、そして、そのオリジナルバージョン(↓)では、シングルバージョン(↑)にはない、女の「人生」が丁寧に歌われていることを知った。(お時間のあるとき、よければ聴いてみてください。)
(↓ フルバージョン、約34分 渾身のパフォーマンス!)
男と出会った高校時代、迷った末の東京行き、小さなアパートでの若い二人の、愛だけではやっていけない、ままならぬ暮らし、そして、男との別れと女の帰郷…。
いささかステレオタイプな男女観は気にはなったものの、フルバージョンを聴いて何よりよかったのは、男と別れて大阪に戻った女が、不如意のなかで夢を追った日々を顧みながら、しかし、別れた男にも、ともに夢を追った日々にも、自身にも、心から感謝しながら、いまを大切に生きているという、女の「行く末」がわかったことだった。
挫折は、新たな夢への入り口だ。
まっすぐ最短距離を走るだけでは、見えないものがある。
人生の蹉跌を経てこそ、つかむことのできる「生」の構えがある。
30分を超える大作を聴き終えて、図らず、涙がこぼれた夜が思い出される。
(蛇足) 今回、この記事を書くにあたりフルバージョンを数回聴いてみた(ヒマなもので…)。全体をいささか「理屈」でまとめるかのように、最後に17番・18番が置かれているが、16番の「最後の手紙 夢をつかんだ人へ……大阪で生まれた女より」( 27:10~28:50)で終わったほうが、物語の「余韻」がしっとり残って一層いいのに、と(勝手ながら)思った。
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