投稿

6月, 2022の投稿を表示しています

『おつかれさま』と言ってみる このボクに…

イメージ
「隠居暮らし」を始めて、まる5年が経った。長かったような、短かったような …。 退職してからしばらくの間は、急に手にした「自由時間」?に戸惑い、何か「有意義なこと」をしなければなどと、すこし焦っていたところもあった。せっかく自由の身になれたのに、長年の習性に引きずられて、ただボーッと無為に過ごすことにためらいもあり、またどうふるまえばいいか戸惑いもあったのだろう。 いま「自由の身になれた」と書いたが、この「自由」はいささか厄介なものでもあった。仕事に追いかけられていたときは、(私の場合)それに紛れて自分と向き合わずにやりすごせていたところもあったのだが、明日までにやっておかねばならない仕事もなく、誰とも話さずひとりぽつねんと過ごす身になってみると、四六時中とはいわないが、いやでも自分と向き合う時間が増えてしまう。これはこれで、つまり「自由の身」も、なかなかシンドイことである。 こうした自分を取り巻くうちそとの環境変化にも、徐々に適応してきたのだろうか、最近では、「あまり難しく考えても仕方ないよなあ」と、この無為徒食の日々を素直に受け入れ(開き直り?)、楽しんでいる(ゴマカシ?)ようなところも出てきた。 この私を含む「ふつうのひとびと」は、口には出さないにせよ、いつだって何かしら答えのない悩みや、出口のない屈託を抱えて生きているはずだから、現役/引退の二分法で人生を色分けすることは、土台無理な話だろう。結局、最近ようやくわかったことは、誰にとっても「その日」まで泣き笑いの人生は続くのだ、というごくごく単純で当たり前のことだった。 ところで、ここ1 年くらいのあいだ、暇に飽かせて、読み散らかしたままの本をもう一度本棚から引っ張り出して読み直したりしている。『須賀敦子全集 第1巻』(河出文庫版、2006年)もそうした一冊だが、そのなかに、よく知られた「ミラノ 霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」と並んで、ある雑誌の連載をまとめた「旅のあいまに」があった。その一つに次のような話があって、思わずハッとさせられた。 須賀さんが親しくしていた、年長のフランス人 修道女がいた。彼女は、1960年代の終りにフランスでおこなわれた教会改革に従って、長い間なじんだ修道服を脱いでブラウスとスカートという一般的な服装をすることになった。以下、少し長くなるが本文を引用する。 「ブラウスとスカー