生老病死(3)「人間、デタラメが一番だ」

(前回からの続き)

さて、ここまでしてきた話は、現在の私にとって、もう他人事ではない。父と同じ歳まで生きることができたとしても、あと10年ちょっとである。その余生をいま生きているという思いがある。

「生老病死」という言葉も、以前は「生/老/病/死」と区切られた文字列だったが、次第にその境があいまいになって、「病老死」を抱えながら「生」きているというような感覚になってもいる。いや、根本的には年齢に関わらず、人の「生」はそのようにあるはずだから、余生を意識するなかで、そのような人間の在りようが、己に向かってより鮮明になってきた、ということなのかもしれない。

高校時代、古文の副読本で『徒然草』を読み通したことがあった。そのときは、ずいぶんと説教がましいことがあれこれ書かれているなあと思ったものだったが、最近読み返してみると、「なるほど」と腑に落ちる叙述があちこちにある。これも余生という意識の賜物なのか。

たとえば、次のような一節である。

「老いぬる人は、精神衰へ、淡く疎かにして、感じ動く所なし。心おのづから静かなれば、無益のわざを為さず。身を助けて愁へなく、人の煩ひなからん事を思ふ。老いて、智の若き時にまされる事、若くして、かたちの老いたるにまされるが如し。」(172段)

高校生の私は、これって老人の「強がり」だよなあ、と片づけていたものだが、当の老人となったいまでは、老い衰えていくなかでこそ静かに得心することも多々あるのだ、と読むようになった。朝ドラ『カムカムエヴリバディ』でくり返される名文句を援用すれば、たしかに「暗闇でしか見えぬものがある。暗闇でしか聴こえぬ歌がある」のである。だからといって、まぶしい陽光や若さを否定するものではない。光と闇は相互に浸透し、それぞれ他に反転しあう関係にある、ということである。

私に似つかわしくない、小難しいことを長々と書いてしまった。

映画『ある船頭の話』(監督はオダギリジョー)の最後のほうで、老医師(橋爪功)が老いた船頭(柄本明)にこんなふうに語るシーンがあった。

「人間、デタラメが一番だ。考えすぎたらロクなことにはならねえ。答えが出るまえに病んじまう。どうせ人生は一回きりだ。楽しいほうがいいに決まってる。…」

父は人生を語らなかったが、 死の直前まで、書道を楽しみ、スポーツ見物を楽しんだのである

(おわり)


「あなた」の植えた梅の、花が一輪、今日開きました。




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