生老病死(2)「行雲流水」…父との180余日
(前回の続き)
20数年前のあのときも、年明けまもない頃だった。かかりつけ医から精密検査を受けるように言われた父は、地元の中核病院で検査を受け、その結果が年明け早々に出ることになっていた。母はすでに亡くなっており、相談相手は、この頼りない私しかいないから、仕事の空き日に、父とともに病院に出向いたのだった。病院の長い廊下の壁に沿って置かれている長椅子のひとつに、父と並んで座り順番待ちをした。
だいぶ待ってから父の名が呼ばれ、二人で面談室のような小さな部屋に入った。すると医師は付き添いの私に「ちょっと来てください」と言って、隣りのスタッフステーションに私を招じ入れた。そこは、医師や看護師があわただしく出入りし、私たちが座る場所もないようなところだった。そんな騒々しい場所で立ったまま、医師から「お父さんはガンです」と告げられたのである。「本人に告知をしますか」と問われたが、私だけが部屋から連れ出された時点で、父も「ガンであること」を覚ったはずである。「もちろん、お願いします」と、即座に答えたように記憶する。そして、ふたたび面談室に戻り、医師から、患部は手術の難しい部位であることなど、あらためて詳しい説明を父ともに受けたのである。そのときは、「こんな大事な話を落ち着かないスタッフステーションで切り出すなんてなんて…」と思ったのだが、そのあと、「いや、静かな部屋で告知を受けるのもそれはそれで〈重たい場面〉になったことだろう。あれでよかったのかもしれない」と思い直したのだった。
詳しい話は省くが、その後、父は本でいろいろと調べたり、またほかの専門家の意見も聞いたりもして、「生活の質」に悪影響のおよぶ外科手術は受けず、緩和ケアを受けながら「ガンとともに生きる」ことをみずから決めたのだ。そして、自宅療養、二度の入退院のあと、最後にターミナルケア病棟で亡くなった。がんの告知からおよそ半年後の夏のことだった。
その半年のあいだ、入退院のことや治療についての相談の合間に、父といろいろな話をした。父の学生時代の友人や戦友であった方が見舞いに訪れたさいには、交わされる話をその横で聞きながら、父の歩んできた人生の一端にふれることもできた。入院するまえには、父の故郷や、またそこからほど近い温泉にも一緒に出かけることもできた。若い頃の「親不孝」はとても帳消しにはできないが、そんな気持もどこかにあった。
ガンが徐々に進行し、ターミナルケア病棟に移ったあと、突然、父が「書道を習いたい」と言い出した。病院近くの書道教室の先生に事情を説明し、出張教授をお願いした。病棟にある談話室で週に一、二度、筆をとった。「行雲流水」とか「明鏡止水」とかの四字熟語を短冊に書いて仕上げていた。自分のいまの気持ちにしっくりくる言葉を選んで、自分と対話するように書いていたのだろう。書道の作品がまとまった数になったので、先生やケア病棟スタッフの勧めもあり、「個展」を病棟で開くことが決まった。
梅雨明けが近づいた頃、父はプロ野球の見物にも出かけた。私はすこし心配になったので、担当医師に相談したところ、「好きなことをするのがいいですよ。私たちもサポートしますから」とのことだった。これがターミナルケアというものかと得心できた。病院が用意してくれた酸素ボンベ付きの車椅子を車に積み込んで、オリックスブルーウェーブの本拠地に出かけた。イチローが日本でプレイした最後の年のことだ。夏の日差しを避けられる場所にいたのだが、やはり疲れが出てきたので、試合見物は途中で切り上げ、病院に戻ることになった。
その日を境に、体力がガクンと落ちてしまった。そして、楽しみにしていた個展の開催日を前にした、ある静かな日の午後、穏やかに息を引き取ったのだった。
葬儀会場はここがいいとか、弔辞は会社関係者でなく友人の誰それさんに頼んでいるとか、香典・供花は辞退するとか、葬儀に関する父の希望もまえもって聞いていた。「ダメ息子」を心配してのことでもあったろう。あらかじめ手渡されていた通知先リストに記された人たちに、病院から電話をかけて父の死と葬儀の日取りを伝えた。
通夜がすみ弔問客がみな帰ったあと、がらんとなった葬儀場の片隅で、その半年の間、父から受けとった「こと」とその意味を、ひとりかみしめた。翌日の告別式では、式場に父の書道「作品」を並べて参列の方々に見てもらえるようにした。それが、父に対して私のできた、ただひとつのことだった。
(’つづく)
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