「生命(いのち)の酒樽」

このところ、本棚に眠っている本を取り出して、読み直すことが多い。積読(つんどく)状態だったものは、今回はじめて読むことになるが、読み進めているうちに、「あっ、これは前に一度読んだことがあったなあ」と気づくこともある。この耄碌ぶりは、我ながら情けない。

さて、鶴見俊輔編「老いの生きかた』(ちくま文庫、1997年)という本に、山田稔「生命(いのち)の酒樽」という短いエッセイが入っていた。私がこの本を買ったときは50歳前後だったと思う。どうしてこんな「老い」についてのアンソロジー本を買ったのかは、思い出せない。それはさておき、この山田のエッセイにおもしろい話が紹介されていた。

 山田は、何年か前に、恩師・大山定一(ドイツ文学者)が、新聞のコラムに次のような短文を寄せていたのをたまたま読んだという。記憶をたどれば、そのコラムはおおむね次のような趣旨であった。

「最近は酒を飲まなくなった。飲みたいと思わなくなった。人間にはそれぞれ一生の間に飲む酒量が定められているらしい。」

この大山の文を山田が新聞で読んだとき、「いささか誇張して表現すれば、何か人生の真実に触れたような、厳粛な、つらい気分にさせられた。すぐに考えたことは寿命ということだった。一生の酒の定量を飲み尽くしたというのは、生命の源が涸れたということではなかろうか。……あの人(大山)はもう先が短いのではあるまいかと不吉なことを考えたのだった」。

はたして、大山はその一年後(1974年秋)に亡くなったのだった、と。

大山が、亡くなる一年くらい前からみずから酒を断っていた時期に、山田の友人のМが、たまたま大山を訪ねていたことをその死後に山田は知った。そのМの話によると、「大山さんは『ションボリ』していたという」。

ほんとうにそうだったのだろうか、山田は気になってきた。70歳を越えても、4日でウィスキー1本を空けていたあの酒好きが、酒を断ち、その最晩年を「ションボリ」送っていたなどとは、思うだけでもつらいことである。そこで、山田は、大山が書いたコラム記事をあらためて新聞の縮刷版で探してみることにした。それは1973年9月の夕刊に出てていた。山田の記憶は大きくは違ってはいなかったが、大山のコラムは、次のような一節で結ばれていた。 

…わたし(大山)はわたしの『分』をすっかり飲み尽くしたのかもしれない。神様が取っておいてくれたわたしの酒樽は、もう一滴も残さないのだ。

 酒はやめてしまったが、いわゆる禁酒の苦しみやつらさは、ちっとも感じない。むしろ飲むだけは飲んだという、さっぱりした、満ち足りた気持である。すべてが自然の移り変わりのような気がして仕方がない。

 春夏秋冬の移り変わりに似ているといえばーーこれが「老」というものであろうか。」

 山田は、師・大山のコラムをこのように引いたうえで、次のように自身の文を結んでいる。

「『さっぱり』と『ションボリ』の違いは微妙である。しかしこのとき大山さんが何を感じていたかは明らかだろう。

 神様、私の酒樽にはまだどれほど残っておりますでしょうか。」

 この『生命(いのち)の酒樽』を書いた「山田」は、実は、私が大学1・2年生のときの、語学(フランス語)の「山田先生」である。劣等生の私に、単位を出してくれた「恩師」、いや「恩人」である。劣等生ほど、身の程知らずというのか、先生の研究室に大きな顔をして出入りもしていたのだった。

私は大学入学後、授業にも出ず、映画館に入り浸っていた。ゴダールの映画ばかりでなく、-東映の任侠映画などもよく見ていたので、先生の研究室に「緋牡丹博徒 お竜参上!」(主演:藤純子。現在の富司純子)の映画ポスターを「おみやげ」に持って行って、コーヒーをご馳走になったりした。そのポスターを研究室の壁に貼ると、先生もとてもおもしろがってくれた。書棚からあふれそうになっている専門書の山に、緋牡丹の「くりからもんもん」(入れ墨)がにらみを利かせていた。研究室の、何やら急にいかがわしくもなったそのたたずまいに、「これって、日仏合作ですね!」と、私も調子に乗って、無駄口をたたいたのだった。数か月後、研究室にふらっと立ち寄りドアを開けると、壁に貼られたままの「緋牡丹のお竜さん」が私を迎えてくれた。いまから50年も前のことである。

山田先生は、もう90歳をまわっておられるはずだ。

先生! 先生の『分』はまだ飲み尽くしていませんよね。



 

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