「海の向こう」と「地の果て」と

今日は、大みそか。週に何度かの「裏山散歩」も、「年末年始は寒波襲来」という予報があったので、29日(一昨日)にすませました。

山の上にある神社前の広場からは大阪湾が一望できます。4年まえ、旧ブログの記事に書いたとおりです。

29日も、裏山に登って海の方を見おろすと、ちょうど六甲アイランド港から自動車運搬船が出ていくところでした。いつものとおり、船が港外に出るまで、ずっと見ていました。見飽きることがありません。あの船の船員さんたちは、海の上で正月を迎えるのかな、それともどこか遠い港で年明け午前零時の汽笛を鳴らして祝うのかな、などと思ってもみました。

古くからある港の埠頭を見ながら育った少年時代から、こんなふうに船の出入りを見ているのが好きでした。「ここでない、どこか」へのあこがれ、あるいは、「ここ」は「ここでない、どこか」につながっているというような感覚……を好んできたのでしょうか。

ところが、このまえ、遅まきながら、映画『悪人』(↓ 2010年、李相日監督)を見て、殺人を犯した主人公の「祐一」(妻夫木聡)のセリフにドキッとしたのです


 


内陸部の国道沿いの狭い世界でずっと暮してきた、もう一人の主人公「光代」(深津絵里)が、海の近くで暮してきた祐一に向って、「海の近くとか、うらやましか」(佐賀弁)と語りかけると、男は、「目の前に海があったら、そん先、どこにも行かれんような気になるよ」(長崎弁)と、女にとっても、また映画を見ているこの私にとっても、意外な言葉を返してきたのでした。

そうか、海は、「海のむこう」を喚起するだけじゃないんだ、自分の立っている「ここ」が「地の果て」であることをも突き付けてくるものなのか、と、このセリフ(原作は読んでいないのですが)にハッとし、いや、このひと言を聞くためにこの映画を見ていたんだとさえ、私は思ったのでした。

女はまだ見ぬ海に「夢」を投影し、男は目の前の海に迫りくる「現実」を見ていた、といえば、すこし図式的に過ぎるでしょう。二人とも、寄る辺のない魂をかかえ、精神の漂流をつづけている、いや現実としても、ともに逃避行を続けている点で変りはないからです。「海の向こう」を焦がれることも、「地の果て」の閉塞感に苛まれることも、別々のことではない、それらはたえず交差し、反転し続けるものだと、映画の最後の場面の、西海の果ての岬に立つ灯台から、沈みゆく夕陽を見つめる二人の眼は、そう私に語りかけてきたように思いました。

だれもが、「祐一」を、「光代」を、なにほどか抱えて生きている。それにしても、深津絵里さん、はじめてその演技を見たのですが、虚構と現実とのあいだを重量感をもって生きていて、すばらしかったです。逃避行のなかで、これ以上自分といっしょにいるとお前に迷惑がかかることになるから車を降りろと気遣って言う祐一に向い、言い返す光代の言葉、表情も鮮烈でした。「ここで(車を)降りたら、私には迷惑かからんわけ? ばかにせんでよ、出会ってしあわせになれると思ったんよ…」…。

ともに生きること、生きようとすることは、その「迷惑」が迷惑でなくなるほど、本気でだれかの「迷惑」を引き受けること(もしくは本気で「迷惑」をかけること)であるのか…。「迷惑」がかかるからと相手を気遣うことのほうが、よほど残酷なことなのか…。

「誰が”本当の悪人”なのか」…映画の予告編の問い(テーマ)とはだいぶ離れたところで、私はこの映画を観ていたのかもしせません。

思い返せば、外国航路の船の出航を飽きず見ていた少年のときからずっとこの私も、「向こう」と「ここ」とのあいだで、小さな思念の往還をくり返し、ときに心にさざ波をたて、ときに荒波にもまれて生きてきたのでしょう。そんなことを、いっそう身につまされて思う歳になりました。そして、いつか元気なうちに、水平線に沈む夕陽にまぶしく輝く海を、どこかでずっと見ていたいとも願いました。


すこしでも、よい一年となりますように。

 




コメント

  1. 先生、HIROです。お久しぶりです。殺人ということであれば、今、GYAOで無料視聴できる韓国ドラマ、「ボイス~112の奇跡~」が、めちゃくちゃ面白いですよ。猟奇殺人を解決して行く刑事モノです。ストーリーの展開は、アメリカの24が参考になっているものと思われます。韓国で大ヒットして日本とタイでもリメイクされました。

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    1. コメント、ありがとうございました(コメントに気づかず、すみませんでした)。最近、ちょっとバタバタしているので、少し落ち着いたら見てみます。

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