Kさんの涙  加藤周一ノート(3)

(前回のつづき)

今回は、加藤の『羊の歌』からちょっと逸れて、前回のN君の話を書いていて思い出したことがあるので、それを書いてみたい。

私の家の近くには、児童養護施設があった。当時、児童、乳幼児がそこで共同生活をしていた。この施設は、明治時代に基督教団体が「貧民救済」活動の一環として設立したものだと、のちに知った。私の母は、正月が近づく頃、家で買った物やお歳暮でもらったハムとかを私に持たせ、その施設に届けるようにさせた。私は施設まで出向き、受付でそれを渡すと、逃げるようにして家に戻った。この施設から同じクラスに通っている子がいたので、彼に見られたくはなかったからだ。何となくそういうことをするにも「後ろめたさ」がつきまとった。

こうしてサラリーマン家庭の子どもとして苦労知らずで育ってきた「お坊ちゃん」は、転校してから、それまで知らなかった世界をつぎつぎと垣間見ていったのである。そして、ある日、「事件」が起きた。

六年生のときだったと思う。自習時間だったか、生徒たちは与えられたプリントと取り組んでいた。担任のМ先生は、ときおり生徒のほうに目をやりながら、教卓の上で何かの書類を整理していた。やおら、「K、お前の家は、北か、南か」と、ひとりの女子生徒に向ってたずねたのだ。

自習していた生徒の手が一斉に止まり、教室の空気が張りつめた(と思う)。皆、目は机に落としたままだったが、Kさんがどう答えるか、息をのんで待っている。ややあって、時間が止まってしまったような教室に、すすり泣きが聞こえてきた。Kさんの声だった。ふだんは勝気な彼女が泣いている。

「北か、南か」という教師の質問の意味を、私も含めクラスの皆が分かっていたわけではないだろう。だが、教室がそのひと言で凍り付いたのは、それが何か「ややこしいこと」に関わる話なのだということだけは、うっすらと分かったからだ(教師は外国籍の生徒の調査報告の書類をつくっていたのだろうか)。私はその質問の意味はよくわからなかったが、ちゃんと自習をしていたKさんが泣きだした以上、悪いのは皆の前で彼女を泣かせるようなことを言った教師のほうであることは明らかだった。それで十分だった。「この教師は許せない」と、ただそれだけを心で強く思った。教師(大人)を好きとか嫌いとか思うことはそれまでふつうにあったが、「許せない」と思ったのは、たぶん初めてのことだったかもしれない。

だが、「なぜ許せないのか」、その言葉が見つからない。その場でだまっている自分が、ただただ、ふがいなく、腹立たしかった。Kさんはしばらくの間、声を押し殺すように泣いていた。それは、教師に対する無言の抗議のようだった。日韓の国交回復よりも前の時代、「人権教育」も「平和学習」もない、粗野な時代の出来事だった。しかし問題はそういう教育の有る無しにあるのではない。その日のふがいなさと後ろめたさが、その後も私には残った。「言葉」をもたねばならない。

 

息の詰まるような自習時間は、何事もなかったかのように終わった。次の家庭科の時間には、担任のМに代わって女の先生がくる。それは、この日に限ったことではなく、いつものことだった(そういう時代だった)。遊び仲間であるY君やS君たちは教室を抜け出ている。家庭科の授業になると(こわいМがいないから)、2、3人が校庭に抜け出して、勝手に遊ぶことがときおりあった。先生が教室に戻るように呼びにいくこともあったが「その日」は戻ってこなかった。これも後で知ったことだが、Y君もS君も在日コリアンだったのだ。なぜあの日、彼らが教室に戻ってこなかったのか、そのわけを想像した。その日あった、大きな「事件」と、そのあとに続いた小さな出来事は私のなかにも、私なりの仕方で残った。転校生の私にY君たちが「チャン蹴り」という知らない遊び(足でお手玉を蹴り上げる)を教えてくれ校庭の隅でよく遊んだが、それが、じつは朝鮮の遊び「チェギチャギ」だったと知ったのは、さらに後のことになる。

加藤周一の『羊の歌』に話を戻すと、前回、紹介した同級生であった「大工の息子」とは、その後、次のように疎遠になっていったという。

 

「小学校での学級がちがうようになると(加藤は「進学組」に入る)、その友だち(大工の息子)と私のつき合うことは、次第にすくなくなってしまった。たまたま帰り路で出会ったときに誘うと、「ぼくは君たちとはちがうのだから、家に帰って手伝わねばならない」といって、向うから避けるようにした。」(加藤周一)

私の場合も、同じく「つき合うことは、次第にすくなくなってしまった」。Y君は中学で番長となり、Kさんは転校していった。私も、その後、その地域からふたたび別のところへ引っ越した。あの教師Мは、のちにどこかの校長になったと聞いた。

ところで、教師Мに対して言えなかった「言葉」は、その後、見つかったのだろうか。加藤は、敗戦後、電車の乗客を見ながら思ったことを、次のように書いている。

「電車のなかには、また、人の好さそうな沢山の顔があり、週末には、子供連れの父親や、夫婦もいた。彼らはそれぞれの家庭で、よい父やよい夫であったにちがいない。そのことと、その同じ人間が、昨日までは中国の大陸で人を殺していたであろうこととが、どうして折り合うのか。日本人の人柄が変わったのか、それとも変わったのは、さしあたりの状況にすぎず、同じような条件が与えられば、また同じような行為がくり返されるだろうということか。……(人間の)性の善悪を問うよりは、多くの人間を悪魔にもし、善良にもする社会の全体、その歴史と構造について考えた方がよかろうという考えに、私はそのとき到達したように思う。」(加藤周一)

Мに対する「許せない」という思いに変わりはなかったが、その後、「多くの人間を悪魔にもし、善良にもする社会の全体、その歴史と構造について考え」ることにほうに、私の関心は次第に向いていった。ただ、その「考え」を、自分の「言葉」としていくには、少年にとってまだまだ時間が必要だったし、その「言葉」が自分のもの=肉体となるには、さらに人生を生きねばならなかった。「あの頃は人情があった」と「昭和」を懐かしがる人がいることを否定はしないが、その「人情」なるものは、ある「条件」のもとで成立するものでしかないと思う。「昭和」と聞いて、私がまっさきに思い起すのは「Kさんの涙」だ。Kさんは「人情」に泣いたのではない。

(つづく)



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