「肉体と化した文化」(”艶容女舞衣”) 加藤周一ノート(7)
真珠湾攻撃(米英との開戦)のニュースが伝えられた1941年12月8日、加藤は東大本郷のキャンパスにいた。医学部の学生になっていた加藤は、附属病院にある階段教室でいつものように講義を受けたが、「内容は身に入らなかった」。英米との開戦になろうなどと思っていなかった加藤は、「その晩の新橋演芸場の切符をもっていた(前もって購入していた)」。芝居(浄瑠璃)は中止になるかもしれないが、行くだけ行ってみることにした。灯火管制をしかれた銀座の街は暗かった。演芸場のなかに入ると、加藤の席のある二階には誰一人いない。「平土間」(一階席)を覗くと4,5人の男がぱらぱらと座っているだけだった。そろそろ中止の案内があるかと思ったその時、「義太夫の語り手と三味線の男があらわれて……あのさわやかな拍子木の音が、客のいない劇場のなかに鳴り響いた。そして幕があき、人形が動きだした。」
(以下、長い引用となりますが、もし興味をお持ちなら…)
「古靭大夫(こうつぼだゆう)は、誰も見ていないところで、遠い江戸時代の町屋の女となり、たったひとり、全身をよじり、声をふりしぼり、歎き、訴え、泣いていた。もはやそこには、いくさも、灯火管制も、内閣情報局も、なかった。その代わりに、何ものを以てしても揺り動かし難い強固な一つの世界、女の恋の歎きを、そのあらゆる微妙な陰影を映しながら、一つの様式にまで昇華させた世界…があった。その世界は、そのときはじめて、観客の厚い層を通してではなく、裸で、じかに、劇場の外のもう一つの世界ーー軍国日本の観念と実際のすべてに相対し、そのあらゆる自己充足性と自己目的性において、少しもゆずらず、鮮かに堂々と、悲劇的に立っていた。古靭大夫は孤軍奮闘したのであろうか。そうではあるまい。江戸文化のすべてが、その身体のなかに凝縮していたのだ。肉体と化した文化……そういうことが、言葉としてではなく、動かすべからざる現実として私の眼のまえにあった。他の何が必要であろうか。」(加藤周一)
美しく、力強い文章だと感じた。その時、加藤は、真珠湾攻撃の「成功」に肩をたたき合って喜ぶ人びとの群れからは遠くにいたが、孤独ではなかった、ということだろう。私は浄瑠璃(文楽)はまったく不案内だ。そういう文化教養にはまったく親しんでこなかったので、この夜、加藤が観た「艶容女舞衣」(はですがた おんな まいぎぬ)のことはよくわからない。そこで、私が高校生の頃から親しんできたブルース(ズ)の世界に置き換えてみたら、この話はどうなるだろうか。次回に考えてみたい。
↓「艶容女舞衣」の有名な「酒屋の段」だそうです。加藤もこの段の有名な口説き(セリフ)「今頃は半七さん。どこでどうしてござろうぞ……」を本のなかで引いています。お時間があれば、ご覧になってみてください。開戦の日の夜、加藤は客のいない演芸場でひとりこの場面を観たわけですね。
(つづく)
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