内向する少年(身から出た錆)  加藤周一ノート(4)

加藤周一が通った東京府立一中は、一高→東大の進学コースを意識した受験校であった。加藤はその校風になじめなかったようだ。『羊の歌』から引用する。

 

「平河町の中学校(府立一中)で私は多くの教師に出会った。その大部分は有能な専門家であり、また何人かは好ましい人物であったにちがいない。しかし誰からも(ある一人を例外として)、趣味の上でも、人格の上でも、あるいは話が少し大げさになるが、世界観の上でも、私はほとんど全く何らの影響をうけなかった。同級生とは人なみにつき合っていたが、夜を徹して語り合うことできる友だちには遂に会わなかった。小学校を出るときには、後髪をひかれる思いも残ったが、中学校の過程を終った時の私は、ほとんど解放感を味わった。」(加藤周一)

 

これは旧制中学(5年制)の話だから、現在でいえば、中学から高校の生活のことになる。私も退屈な顔をして中高生活を送っていた一人だったと思う。中学1年か2年のとき、社会科の授業で憲法について習った。「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重」と教えられたので、疑問に思ったことを教師に質問したことがある。「憲法は国民主権の考え方にもとづくものなのに、憲法の第一章が天皇から始まるのはなぜですか? どうして国民は第三章なのですか?」と。天皇制について何か特別の考えがあったわけではない。ただ憲法の三原則とされる考えと、実際の憲法の構成とのズレに違和感をもったにすぎない。しかし、教師は「そんなことは考える必要はない」とすまそうとしたので、私はつい「天皇をなくせば矛盾はなくなるのではないですか」と口答えをしてしまった。戦争経験者である教師は「バカなことを言うんじゃない」と言って、私の頭を出席簿の角ではげしく打ったのだった。

その日、私は、憲法とともに「学校というところはこういうところなのだ」ということも学んだようだ。それ以降、授業中に質問をすることは他の教科でもなかった。ずうっと「帰宅部」の、何を考えているのかわからない生徒として教室に「いた」だけだったと思う。もちろん、ときどき面白いなと思う授業もあったが、どの教師からも「世界観の上でも、私はほとんど全く何らの影響をうけなかった」。私のほうが心を閉ざしているのだから、それは身から出た錆だ。

ときどき、中学生たちの登下校時にかちあうことがある。グループで楽しそうに話をしながら歩いているようすを見ると、正直、羨ましい気持ちになることがある。そしてまた中学生だったときの自分をさがしているのだろうか、笑い合っていても何か割り切れないもやもやとしたものをそれぞれが抱えているんじゃないかとも思ってみたりもする。学校が「世界観の上で…影響をうけ」るところでなければならないとしたら、それはそれでこわい。本のなかにも、街のなかにも、自然のなかにも、「教師」はいる。

 

(つづく)

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