少年の「後ろめたさ」  加藤周一ノート(2)

加藤周一の父は帝国大学医学部(東大医)で研究にたずさわったのち、東京渋谷で開業医をしていた。家は医院兼住宅で、高い塀がめぐらされていた立派な邸宅だったらしい。小学校の級友たちは「大きな家だなあ」と感嘆するだけで、臆して門のなかには入ってこなかったという。同じクラスに「成績の抜群によい大工の息子」がいた。「休みの時間にも『勉強』をしていることが多く……私は教室での競争相手でもあり、友だちでもあった」。あるとき、学校の帰り道に誘われて、加藤は「大工の息子」の家に行ったことがある。家の中では話をすることもできないようで外で話をしていると、彼の母親から赤ん坊の世話をするようにと声がかかった。彼は赤ん坊を背負ってまた家の外へ出てきたが、赤ん坊はなきやまず、それ以上話を続けることはできなくなった。

 

「『家へ帰って来ると、勉強ができないからねえ』と彼は少し淋しそうにいった。私は教室での彼との競争が、全く条件のちがう競争であったということを理解し、そのことにほとんど後ろめたさを感じていた。」(加藤周一)

私にも、似たような「後ろめたさを感じ」た経験がある。1960年頃、父親の転勤で神戸に引っ越してからのことだ。転居した先の借り上げ社宅は、もと貿易商が住んでいたそうで、建物は古かったが(空襲の難を逃れたのだろう)以前いた社宅よりも大きな家だった。だからといって「お屋敷まち」に住んだのではない。家の向いには沖仲士(港湾労働者)のアパートがあり、それに隣接して、いまなら「不法建築」とされるような4階建ての木造アパートが何棟か密集してあるようなところだった。同級生のN君はその一画にある文化住宅に住んでいた。その文化住宅は大きな二階建てで、一、二階ともに真ん中に長い廊下が通り、その両側に部屋がたくさん並んでいた。炊事場、トイレは共用だ。訪ねたときはN君のほかに家族はいなかったが、その一部屋(ひと間)にN君と弟、両親の四人で暮らしていることを知った。何の話をしたのかは覚えていないが、遊んだあとおなかが空いていたのでN君は「日清チキンラーメン」をつくってくれ、それを一緒に食べた。その日、私は初めてインスタントラーメンを食べたのだった。目と鼻の先にある、一軒家と文化住宅。加藤の本を読みながら、算数がよくでき、私より聡明で、大人ぽかったN君のことを思い出した。そのとき感じた「後ろめたさ」とともに。

 

(つづく)



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