病弱な子ども  加藤周一ノート(1)

加藤周一に『羊の歌 わが回想』(正・続、一九六八年、岩波新書)がある。副題に「わが回想」とあるように、加藤の幼少期から50歳(執筆当時)くらいまでの歩みをみずからかえりみたものだ。

加藤は1919年、東京生まれ。「1931年満州事変のはじまった年に中学校に入り、1936年2・26事件の年に中学校を出た」。東京府立一中(現日比谷高校)→ 第一高等学校理科(現東大駒場)→ 1939年東大医学部というように、絵に描いたような「エリートコース」を歩んだが、この本の主題はそこにはない。青少年期をまるごと戦争の時代に過ごした一青年(少年)が、その時代のなかで何を考えていたのか、その部分を中心に「加藤周一ノート」を書いてみたい。

私がこの『羊の歌』を読んだのは、この新書が出た1968年(私が大学に入った年)ではなく、その約20年後になる。手元の新書の後付けを見ると、「1988年 第28刷発行」となっている(いまなお再版が続く本のようだ)。学生の頃は、加藤周一を「微温的知識人」と決めてかかっていたように思う。おのれの未熟さゆえの偏見だったが、それがまた「若さ」というものでもあろう。

さて、これから何回かに分けて、この加藤の著作のなかで私が立止ったところに触れながら、すこし我が身に引き寄せて感想めいたことを記してみたい。この10年ほど、物忘れ(思考力の低下)がひどくなり、本を読んでも頭になかなか入らない。その頃から本を読むとき、ノートにメモをとるか、それはなかなか面倒なので気になるところに紙切れを挟んでおくか、そんな本との付き合い方をするようになった。加藤の『羊の歌』のあちこちにも紙切れが挟んであるから、この本をその頃また読み直したということになる(それも確かでない)。紙切れのあるページを開けてみたものの、どうしてそこに挟んだのか、思い出せないいい加減さなのだが、まあいい、いま読み直して思ったこと、あるいはそれを手がかりに我が身をかえりみたことなどについて、少しずつ書いてみようと思う。


「子供の頃の私は、しばしばのどを腫らして、熱をだした。そして高熱の度に、いつも悪夢に悩まされた。その悪夢のなかには……ある巨大な車輪のようなものが音もなく、ゆっくりとしかも確実に近づいてきた、私を圧しつぶそうとする。…」(加藤周一)

私もどちらかといえば体の弱い子どもであった。まだ記憶のない幼い頃、原因不明の高熱が続き、後遺症の出るおそれもあって親たちを心配させたという(あとから聞いた)。その後も、加藤と同じように扁桃腺をよく腫らして熱をだしていた(手術して切除するかどうかという話もあった)。また小学校3年の頃だったか、腸の病気を患い、ひと夏を自宅で安静に過ごさねばならなかったこともあった。寝ていると外から仲間たちの遊んでいる声が聞こえてくる。でも、臥したまま天井をずっと見ているしかない。雨水が天井に沁みてつくったものだろうか、不定形の「巨大な車輪のようなもの」が天井でくるくるとよく回りだしたのを覚えている。小学校の終わりの頃には、軽い不眠が続き、「赤玉ポートワイン」(人造葡萄酒?)を飲んで寝ることもあった。それを公認で飲めるから、不眠のふりをしたこともあったかもしれない。さらにのちには(中学時代)、結核になりかかっていたことが判明し、医師から運動の禁止を勧告されてそれに従っていた時期もあった。無理ができなかった「おかげ」で、ここ(70歳)まで何とか生きてくることができたのか思う。

 

「私は彼(武術に通じた叔父)を崇拝してはいたが、彼のように強い男に自分がなれるだろうとは考えていなかった。病がちであったし、同じ年頃の子供と比べても腕力に秀れた方ではなかったからである。……私は他人が『男性的』とよぶだろうもの、腕力にしても、権力にしても、他人を強制することのできる力の強さやいわゆる豪放磊落の気風を、はじめからあきらめ、そこに格別の魅力も感じないで育った。」(加藤周一)

 この一節を読んで、病気がちの幼少年期を過ごした子どもには、どこか共通する人間観のようなものが、思想というより体質的なものとして形成されるのだろうかと思った。たとえば、学生時代、麻雀、パチンコ、競馬……まわりの学生がそれを楽しんでいても、私にはそれが面白いとは思えなかった。「勝った、負けた」とか「強い、弱い」とかいうようなことが、そのつど自分に対して明らかになる場、人と競うような場は苦手だった(パチンコはすこししたが)。すこしやってみても弱かった。そもそも「強くなろうとする」意欲がなかった。夢中になれないのである。体質としか言いようがない。加藤の本を読んで、腑に落ちたような気がした。

 

「外へ出て遊ぶことの少い子供は、容易に文字を覚えた。……私に本を買いあたえた両親の心配は、子供があまり本を読まぬだろうということではなく、読みすぎるということだけであったらしい。……もし私が病身でなかったら、活字に親しみを覚えることななかったかもしれない……」(加藤周一)

 ここは私の場合決定的に違っていた。親から本を与えられたことはなかったし、絵本を読んでもらった記憶もない。家には小さな本棚があったが、会社勤めをしている父の仕事に関した本がすこしあるくらいで、「文化」の香りはそこにはなかった。夢中になるものもとくになく、もちろん習い事をすることもなく、ボーっと日々と過ごしていたんだろう。そういえば、学生時代、「お前は年寄みたいな奴やな」と、勝負事の好きな友だちから言われたことがある。何を楽しみにコイツは生きているんだろうと、思われていたのだろう。でも、子どものときから、私は人生に一生懸命になっていなかったのだろうが、かといって、人生に退屈していたわけではなかったのである。

 (つづく)




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