はっきりさせること、あいまいなままにしておくこと。

客:ひさしぶり! 新しいブログを始めたんだね。読んだよ。
主:ありがとう。新しいブログを始めてみたんだけど、前とどう違うか、自分でもよくわからないんだ。
客:はっきり言って、もうひとつ違いがわかりにくいよね。
主:たしかに…。ただあまり不特定の人に向ってではなく、ボクのことをちょっと知っていそうな人に向って、実際に読んでくれているかわからないけど、語りかけるという感じで当面やっていこうと思って始めたんだよ。自分ひとりのなかで片を付けてもいいんだけど、「だれか」を想定して語るというかたちをつくってみないと、怠け者のボクはなかなか考えたりしないからね。ただこの前書いた記事なんかも、人様に語るに足るものか、語って何になるのか、きっと「引く」だろうなと思ったり、自分でもよくわからないわ。
客:まあ、そんなに気にしなくてもいんじゃないの。近況報告みたいに読んでくれているかもしれないし、甘えさせてもらったらいいんじゃないの。
主:「近況報告」というより、生存報告みたいなものかもしれないね。「まだ生きています!」って。
客:自分に向き合うのにキミが必要だと思えば、それを続ければいいだけじゃないの。
主:ところで「生存報告」といえば、最近こんなことがあったんだよ。

*****
(前置きが長くなりました。スミマセン)
この時期になると、「喪中につき年頭のご挨拶を失礼させていただきます」という挨拶の葉書が来ることがあります。人付き合いがほとんどないので、もともともらう年賀状もすごーくすくないけど、そうした挨拶が今年二通あって、そのうちの一通に子どもの頃にすこし行き来のあった親戚の人からのものがあったんです。その人(Aさん)の母親と私の母親がいとこ同士というくらいの関係なんですが、Aさんは親戚づきあいもきちんと続けるという考えを持っておられて(同窓会などの集まりにも積極的に参加しているようですし)、私のようないい加減なものにも年賀状を、私の父の葬儀で再会して以来、送ってくれるようになっているのです。
その「喪中の挨拶」には、Aさんの兄さんが亡くなったことが書かれていて、幼い頃、その人ともいっしょに遊んだことがあったので、そのときの思い出なども短く記して、お悔みのメールを(メールで失礼かと思いながらも)Aさんに出したのです。

すると、メールでの返事があって、たがいに長く会っていない親戚の何人かの近況とかが書かれていたり、「一度、私たちの〈代(だい)〉で集まりましょう」ということなどが書かれていて、私はちょっと面倒なことになったなあと正直思ったりしていたんです。
そしてその翌日、またメールが来て、親戚のだれそれさんが私の姉に連絡したいから連絡先を教えてほしいと言うのです。
じつを言うと、すこし事情があって、というより私の悪い性分もあって、実の姉ともほとんど連絡をしていません。Aさんはもちろんそんなことはまったく考えてもいないのでしょう。
もちろん姉の連絡先は知っているので、Aさんにお伝えすることにしたのですが、ここ数年のあいだに住所が変わっていたり連絡が取れない場合があっても困るので、姉とも長いあいだ会っていないことを正直にお伝えしたうえ、「そんな私がまして親戚との交流をする資格はないと思っています」みたいなことを書き添えて、返事をしました。
今度は、Aさんから、「連絡先を教えてくれてありがとう」の一言も返ってきませんでした。

みなさんは、私のような人間が兄弟姉妹、親戚すじにいたら、どう思われますか? 
「ややこしい奴」「薄情」「偏屈もん」「冷たい」「わがまま」「非常識」…どれも当たっているでしょう。いったんそれらの言葉を甘受したうえで、こんなふうにも私は考えているのです。

「親兄弟/姉妹」という言葉は、他の人間関係(「他人」)に比してより親密性のある関係(親密圏)として語られますが、その「親密性」ゆえに、あるいは家族という(慣習・社会・法)「制度」ゆえに、それ自身が問題を生み出すこともまたあるでしょう。
家族が親密「である」ことはいいことです。しかし、家族が親密「であるべき」だとはかならずしも思いません。言葉をかえれば、家族は「ある」のであって、「あるべき家族」があるのではないということです。どうでしょうか。
私がAさんの言葉のはしばしに感じたのは、「あるべき家族/親戚」というにおいでした。「あるべき家族」という強迫が、家族の「ある」、百通りも千通りもあるその「ある」を苦しめることがある。家族の「ある」だけでも苦しいことがあるのに、あるいはその苦しさから逃げ(考えないようにし)ているに苦しさが増す。そのことについてAさんはどれくらい自覚/想像しているんだろう? その「親切」は私にはざらざらした重荷でしかない。
「もう連絡してこないでください」という意味で返事したのではないのですが、Aさんは私の言葉(「親戚と交流する資格はない」)をそう受け取ったのでしょうかね。


最近、こんなこともありました。
以前勤めていた職場でいろいろ世話になった先輩が亡くなったということを、その死からだいぶたってから人づてに知ることがありました。「なぜ誰も連絡してくれなかったのか」などとはまったく思いませんでした。私自身が「薄情」なわけですから、人様を「薄情」などとはまったく思いません(そう言う資格もありません)。時間をおいて、人づてに、伝わってくるという、その関係のありようが私にはほどよい、いや生前のその人との関係のリアリティ、距離感というものだったのでしょうしね。私が退職した二年半前、地元の蔵元に寄ったときふと思いたってそこから酒を送ったことがありました。二、三日後に電話がかかってきて、「お前、もうやめたのか。オレはもう少しやるよ」と言っていたんですがね。思えば、あのとき話ができてよかった。それで十分です。
「あいつは葬式にも来なかった」、あるいは「葬式に呼ばれなかった」…もう、そういうことはよしにしましょうよ。誰かとの「けじめ」、納得のつけかたにも幾通りもあっていいじゃないですか。だめですか?
*****

主:また今回も、なんだかわからないことになってしまった感じ。これ読んでくれた人、いっそう「引く」よね。
客:うーむ。そうかも。でも、キミはそうでしかないんだから、思ったこと、言いたいこと言えばいいんじゃない。
ところで、タイトルの「はっきりさせること、あいまいなままにしておくこと」と、上の話はどう関係があるの? 
主:ごめん、すっかり忘れていたよ。若いとき「はっきりさせた」と思っていたことが最近「あいまい」になってきたり、Aさんのことみたいに、こちらでは「あいまいにしておいた」つもりなのに、むこうのほうから「はっきり」させられたり、そのふたつは反転するというか、線引きできないというか…。
客:なんか、あいまいな話になって来たね。
主:たしかに…。ただ、そう先は長くないから、自分の苦手なことからはできるだけ逃げておきたい、遠くにいたいというようなことかな。それで、結果として、「はっきり」してきても、「あいまい」になっても、それを受け入れるだけかな、という感じ。いまさら欠点の克服!とかじゃなく、それを抱えて生きるしかないということかな。
客:まあ、小難しく考えず、自分にすなおに、楽しいことをすこしでもしていこうよ。
主:そうだね。おたがいにね。
客:また来るよ。
主:今日はありがとう。







コメント

  1. 初めまして
    京都在住の
    この25日で72歳になります

    記事を拝見して
    同感することがたくさんありました
    私は20の時に家出していることもあり
    父や母が亡くなった時も帰りませんでしたから
    もう私なりのお別れはしているという思いからです
    それから田舎には帰れない 帰らないという思いからです

    こちらには前のブログがら参りました
    「新ブログへ」という記事を読みました
    そのブログ記事にたどり着いたのは
    「”ハヤン・ナビ” 映画「怪しい彼女」(2)」の記事を
    検索で知ったからです

    それまでの経緯を書き始めましたが
    そして書きたいという思いもありますが
    初めてのコメントなので
    この辺でやめておいた方が賢明かと思いました
    コメント欄を見ると私のアドレスが
    はて登録していたのかなと・・・
    すると以前海外サイトということでBloggerに登録
    いくつか記事を書いているのを思い出しました
    Bのアイコンを見てピンと来ない有様も
    いいかげんな人間だとお分かりいただけるかと
    またお伺いして記事を読ませていただこうと思います
    その折に思うことをコメントさせていただくかもしれません
    どうかよろしくお願いいたします
    長々と書きました失礼をお許しください
    ではまた
    ごきげんよう

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    1. Laymanさん、ご丁寧なコメントをありがとうございました。
      あんなグダグダの文を読んでくださり、またどこかの部分に「同感」してもくださり、ほんとうに感謝します。
      ”ハヤンナビ”の記事を読んでくださったのですね。あそこでは書かなかったでのですが、歌にある「考えないで もう過ぎ去ったことは…」は、恋愛関係に限らず、いろんな人間関係にもあてはまることのように思っています。
      上の記事の最後に紹介した「ココさん」の話、いくつか聞いてみたのですが、面白いことを言っていました。
      「自己や他者をなかなか肯定できなくても、その肯定できない状態で留めておいてほしい、否定までは行かないでほしい」という言葉が印象に残りました。
      「考えない」という言葉でこれまで私がやり過ごしてきた中途半端な処世は、そういうことであったのかもしれないなと思ってもみました。
      私もいろいろお話してみたいことがありますが、「初めての返信」なので、このあたりでとどめておきます。
      また、ふっと思い出した折にでも、覗いてみてください。月に一回くらいは何か考えていることを書いてみたいと思っています。
      こちらこそよろしくお願いします。

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